小さな幸せ

思想・学問

 昨日は精神科の診察がありました。
 最近はわりと調子が良いので、世間話に終始しました。

 精神科医は、仕事は適当にこなして、日常のちょっとしたことに幸福感を覚えられるようになったなら、それが一番良いと言います。
 偉くなったところで、大したことはない、と。

 それはそうでしょうねえ。

 偉くなったところで大したことではありません。
 ていうか、精神病で長く休んでしまった私が出世するはずもなく、出世を望んだところで、虚しいかぎりです。

 偉くなると言えば、今、自民党の総裁選のニュースが盛んに流れています。
 政治家は、偉くなりたいのでしょうねぇ。
 それに幸福感を覚えるのなら、大いにやったら良いでしょう。
 今回は本命不在と言うか、誰が勝つのか、予想がつきません。

 河野、岸田、高市が激しい権力闘争を繰り広げています。
 その裏では安倍、麻生、二階、森などが暗躍しているようです。
 猿山の猿のボス争いとたいして変わらないような気がします。

 私は、地味でつまらないけれど、安定政権を築くことが出来るのは、岸田候補だと思っています。
 河野は舌禍事件を起こしそうだし、高市は右に振れているように思うからです。

 それにしても、権力闘争に血道をあげるのはなぜなのでしょうね。
 争いごとというのは絶えた試しがなく、殺し合いではなく、言論による戦いですから、平和でよいと言えばそのとおりで、私たち庶民は、平和な争いごとを、一種のエンターテイメントだと思って傍観していればよいのです。

 殺しあいをするのではなく、頭数を数えるほうがマシだと言ったのは誰でしたか。

 私は権力闘争とは無縁の世界で生きています。
 働いて、休日は少し楽しんで、死んでいくばかりです。

 死ぬばかりだといっても、私は生まれてくる前にも、死んだ後にも、私という存在の核のようなものが、過去も未来もあり続けているはずだという予感を、ぼんやりと持ち続けています。

 それは輪廻転生とも、幽霊とも異なる、もっと神聖で複雑なものだとも思っています。
 そうであるなら、現世での出世など、馬鹿々々しいことだし、時間の無駄だと感じます。

 では何をよすがに生きるのでしょう?

 コリン・ウィルソンの言う至高体験を求めるということになろうかと思います。
 至高体験と言っても、大それたことではありません。

 例えば休日の朝ののんびりした幸福感。 
 散歩や旅行、芸術鑑賞など、ほんの些細な幸せで十分なのだろうと思っています。
 奇麗な花が咲いていた、飯が旨かった、その程度で。

 可能ならば早く引退して、山中に庵をむすぶ代わりに、都会の片隅で、世捨て人のような生き方が出来ればこんな幸せなことはないと思いますが、それでは生活出来なくなってしまいます。

 サラリーマンを続けながら、小さな幸せを求めるしかありません。

 ちょっと寂しい気はしますが。