昨日、父が昭和30年代から40年代にかけて、「思想」誌上での進歩派の論考を興味深く読んだことと、今はそういう思想はどう解釈されているんだろう、という疑問を聞きました。
私は思想的なことは疎いのですが、進歩派全盛のときに保守派として進歩派の平和論を批判した福田恒存の著作はいくつか読んだことがあります。
昭和50年代後半、日本の保守化が進み、進歩派が勢いを失っていったころ、ある雑誌記者が、福田恒存の正しさが証明された、というようなヨイショをしたそうです。
すると、彼は、自分の論が正しかったから日本人が保守化したのではない、ソ連が怖いから保守化したのだ、大量兵器が怖いからという理由で思想が変わること自体、思想というものの危うさをしめしているのだ、というようなことを答えたと言います。
リアリストというか、物事をいつも冷めた目で見るのですね。
三島由紀夫の死後、三島の右傾化については、三島は常に芸術家として行動した、三島にはなんの思想性もない、という意味のことを言っています。
そういう意味では、私には思想性というものはありません。芸術性すらないかもしれません。
私にあるのは、この世ならぬものへの予感とあこがれだけです。
それが、私の関心の中心であり、文学や美術への興味は、その中心の円周上をふらふらしているに過ぎません。
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