思考の冒険

思想・学問

 世の中には不思議なことがたくさんありますが、一番の不思議は、私たちがこうして生きていることでしょうね。
 その不思議を思えば、幽霊が出ようが、宇宙人が飛来しようが、どうということもありますまい。

 で、その不思議の謎を解こうと、様々な宗教や学問が発達してきたわけですが、この世がどのように成り立っているかということは解明できても、なぜ存在しているかは、永遠に解明できないでしょう。
 もちろん、唯一絶対神のようなものを設定すれば説明はできますが、ではその神様がなぜ存在するのかを問うたなら、たちまち答えに窮するでしょう。

 結局私たちは、真っ暗闇の世界を手探りで進み、やがて死んでしまうだけの存在です。
 そこに意味を見出そうとしたところで、それは空しい徒労に終わるでしょう。

 うつ状態が激しいとき、主治医は今にも自殺してしまいそうな私の様子を見て、「人は生きているだけで意味があるのですよ」と諭しました。
 自殺を思いとどまらせるための方便にしか過ぎないその言葉に、私は心動かされることはついにありませんでした。

 しかしそれでも、人は生きることに意味を見出そうとします。
 社会的成功とか、個人的幸福とか、自己実現などによって。
 それは一時的に脳に快楽物質を放出させ、幸福を感じさせることでしょうが、酒の酔いや麻薬のトリップと大差ないでしょう。

 それでも生きなければならない生命が、何をもって生きているのかと言えば、少なくとも私にかぎって言えば、死ぬのが怖いから、もしくは自殺する理由が無いから、としか言い様がありません。
 厭世的に聞こえるかもしれませんが、私は本来享楽的な性格を色濃く持っています。
 ただ、時折この世の不思議、私が存在する不思議を思うと、なんとも救いの無い思考にはまっていくのです。

 デカルトは我思うゆえに我あり、と、存在をいくら疑っても、疑っている自分の存在は確かであろうと推論しています。
 しかし、ビアスは悪魔の辞典で、我思うと我思う、故に我ありと我思うが正しいだろうと、あくまで本人がそう思っているに過ぎないと喝破しており、それは尤もだろうと私も思います。

悪魔の辞典 (角川文庫)
アンブローズ・ビアス,奥田 俊介,倉本 護,猪狩 博
KADOKAWA / 角川書店

 意識と世界の問題を追究すると、仏教の唯識や西洋の心理学など、ほとんど思考の遊びというか、思考の冒険に入らざるを得ず、それはたいそう面白い冒険ですが、物事の本質を突いたように錯覚するだけだろうと感じます。 

 このような思考の冒険が成立するのは、人というもの、よほどおのれの意識を信頼しているだろうからで、信頼しているものを疑うことに、面白さがあるのがその本質であって、なぜ私が存在するのかという命題の答えになることはあり得ず、そんな気になるだけです。

 もし人が意識を持ち、それを理論的に考える言葉を持ったことに意味があるのだとすれば、答えの無い問いを問い続けるという不毛な冒険を続けるためだとしか思えません。
 不毛な冒険を何千年でも何万年でも何億年でも続けることに意味があるのだと信じる以外、今の私たちが宗教以外に寄って立つ道は無いであろうと考えています。

 日々の晩酌を楽しみに酔生夢死の享楽的な生活を続ける私ですが、時折、柄にもなく人類存在の意義を考えてみたくなるのです。 

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