性愛の文学

文学

 源氏物語の例をひくまでもなく、わが国において、というより世界において、恋愛あるいは性愛を描くのは文学の王道でした。
 そして面白いことに、わが国の古典文学においては恋愛ということと性欲ということを分けて考えることはありませんでした。
 また、男女間において、あるいは少年を愛する衆道において、愛する、という言葉を使うことはなく、通常は惚れるという言葉を使うことが多かったように思います。
 それはすなわち、恋はあっても恋愛は無かったものと思われます。

 明治に入ると、わが国における性的おおらかさは、庶民の風俗習慣はともかく、少なくとも文学の世界では性愛を描くことはタブー視されるようになりました。
 森鴎外のヰタ・セクスアリスにおいても、性欲的生活を赤裸々に綴ると文頭で宣言しておきながら、まるでおのれの性欲を否定するようなエピソードばかり描かれ、まるで性欲を汚いものであるかのように感じさせます。

ヰタ・セクスアリス (新潮文庫)
森 鴎外
新潮社

 時代の制限なのでしょうか。

 戦後にいたると、ほとんど性描写に終始している村上龍の限りなく透明に近いブルーなどがもてはやされ、これは大日本帝國の否定と同時に、性的なことについても逆にふれたように感じられます。

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)
村上 龍
講談社

 文芸映画、愛のコリーダも、全編これ性描写のような映画でした。

愛のコリーダ ~IN THE REALM OF THE SENSES~ (Blu-ray) (PS3再生・日本語音声可) (北米版)
松田暎子,藤竜也
Sony Pictures Home Entertainment

 しかし時代は進み、性を描くということは文学の一つの柱と認められ、逆に言えば柱の一つでしかない、当たり前のものになりました。
   これは喜ぶべきことでしょうね。

 しかしそれは、わが国にとって、現在の価値観で言えば性犯罪の文学とさえ言える源氏物語に先祖返りしただけなのかもしれません。 

源氏物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店
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