性的マイノリティの成人式

その他

 先ほどNHKの某番組で、成人式を取り上げていました。

 少し遅すぎはしませんかと思いましたが、それはゲイやレズビアン、性同一性障害の者など、性的マイノリティばかりが集う成人式でした。
 体は男性だけど心は女性の者が振袖を着てきたり、その逆の者はスーツや紋付袴で現われたり。
 彼ら彼女らは、一様に誇らしげで、楽しそうでした。

 おそらくは、幼少の頃、物心ついた時から世間の常識に違和感を持ち、差別や偏見にさらされ、親や家族からも理解されずに過ごしてきたであろう20年間を吹き飛ばすような、晴れやかな笑顔でした。

 人間というもの、少数派を差別するのが本能であるかのごとくに感じられます。
 心ならずも少数派に生まれついてしまった人々の心中を思う時、人間であること、わけても私自身が少なくと性的には多数派の異性愛者であることに、恥ずかしさすら感じました。

 わが国は伝統的にトランス・ジェンダーということに寛容というか、むしろ積極的にそれらの存在を自然の一部として受け入れ、歌謡や芝居などではそれらの存在をごく当たり前の者として描いてきました。

 それは国際的にみて、奇跡のような大らかさで、わが国が誇って良い文化であると思います。

 例えば今がまさに絶頂期のAKB48の歌を見ると、ほとんどが、少女たちのグループでありながら、「僕」という男性一人称の少年の目線で歌われています。
 そのようなことは、Kポップにしても、欧米の若い女性歌手にしても、まず見られない倒錯した詞です。

 これはおそらく、宝塚や歌舞伎などの性別を超えた芸能と連なるもので、現代の若者の心性にも、それら性をやすやすと乗り越えるわが国の伝統文化が息づいているために受け入れられたのだろうと推測します。

 わが国がトランス・ジェンダーに最も差別的だったのは、明治維新以降、急速に近代化を押し進め、時代の必然として帝国主義的政策を取らざるを得ず、軍国化していった頃だろうと思います。
 戦後も、急速な経済発展を求めるがゆえに男は外で働き女は家庭を守るみたいな、いびつな性差による役割分担を国家が求めたため、それは続いたように思います。

 わが国の伝統文化に反する、恥ずべき時代だったと言わざるを得ません。

 しかしやっと、欧米中心の価値観が、わが国の伝統文化である、トランス・ジェンダーに寛容なそれに追いついてきたように思います。
 わが国もまた、世界の価値観の変容に伴って、遅まきながらトランス・ジェンダーに寛容な風潮に回帰してきたようです。

 それは誠に喜ばしいことです。

 私は高校生時代、何度もゲイと思しきおじさんから痴漢に会いました。
 それは今思い出しても気色の悪い経験でしたが、当時同性愛やバイ・セクシャルの文学や芸術に憧れていた私にとって、自分がどこまでいっても異性愛者だと思い知らされる、屈辱的な経験でもありました。

 そういった痴漢を除いて、高校生の頃、一度だけ、二つ下の後輩男子から口づけされたことがあります。

 あれは今になってみると不思議な感覚でした。
 痴漢に会うのとは違って、嫌悪感はなく、むしろ甘美なものだったと思います。
 後輩がどういうつもりでそういう挙に出たのか、知るよしもありません。
 高校卒業以来会った事もありません。
 彼が今どうしているのかも知りません。

 私はその後異性愛者として性欲の赴くままに行動し、若い頃には常軌を逸した行動に出たこともあります。

 そして今は、精神障害の後遺症か、男性機能を失いました。

 そんな私にとって、あの後輩の思い切った行動は、その後のあまたの女性たちとの狂気じみた交渉よりも、少年時代の甘い記憶として、鮮烈に残っているのです。

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