恋愛は利己的?

思想・学問

 某有名女子大学の心理学の講義で、恋愛は本質的に利己的である、という命題についての討論が行われたそうです。
 冒頭、この命題の是非について尋ねたところ、是とする者が9割、非とする者が1割だったとか。
 この討論に参加した女子大生の圧倒的多数が恋愛は本質的に利己的である、と感じていたわけです。

 好きになるのも自分の都合、告白するのも自分の都合、プレゼントを贈るのも相手に好かれたいという自分の都合、自己犠牲的な行動にでるのも相手に好かれたいという自分の都合。
 すべての行動が自分の利益にかなうかどうかで行われている、というわけです。

 なんか、元も子もないというか、ずいぶん冷めちゃってますねぇ。
 若い女子大生ならもう少し恋愛に夢や希望を持っても良さそうなものですが。

 この論法を使うと、あらゆる行為が利己的になっちゃうんですよねぇ。
 キリストが磔になったのも、己の信念を貫きたい、という自分の都合。
 特攻隊員が志願したのも自国の戦局を有利にしたいということと、英霊として祀られたいという自分の都合。
 自殺するのも憂き世から逃れたいという自分の都合。

 でもこれ、なんか違和感を感じます。
 わずかでも利己的な感情があったらすべて利己的、と言えばそうなんでしょうが、利己的な理由に加えて利他的な感情がある場合、本質的に利己的と言えるんでしょうかねぇ。
 私は違うと思いますね。
 利己的な感情が少しはなければ、人間なんにもできません。
 しかしその利己的な感情より以上に利他的な動機がなければ、キリストは磔にならなかったでしょうし、特攻隊へも志願しなかったでしょう。

 解雇覚悟で会社の不正を暴くとか、人間には己の利益だけでは考えられない行動をすることがあります。
 それをさえ、会社の不正を暴いて社会から賞賛されたいという利己的欲望と説明するのは、もはや詭弁のように思います。

 では、恋愛は?
 恋愛の大本は自分の遺伝子を好ましい異性との結合によって残したい、ということでしょうから、これは利己的なんでしょうね。
 しかし高度な社会的生物である人間は、どこまでいっても社会的であらざるを得ず、やみくもに自己の欲求を追求することは許されません。
 恋愛や結婚も社会的行為です。
 男女のつがいは最小の社会的単位です。
 その小さな社会を維持するには、相手との利害の調整や感情的な親和性を不断に求め続けなければなりません。
 そのような高度な社会的関係である恋愛を、十把一絡げにして本質的に利己的である、というのは、ためにする議論という感が否めません。

 くだんの女子大学での討論、少しずつ非とする者が増えたようですが、依然として是とする者が多かったようです。
 ぐだぐだ言ってないで、恋せよ乙女。


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