恋猫と語る女

文学

 今日はよく晴れました。
 そうだというのに、コロナを恐れて外出しませんでした。
 そんな土日が続いて、どれくらいになるでしょう。
 散歩に出かける気にもなりません。

 こんな日は、句集でも紐解いてみようと、どれが良いかなと書棚を見つめ、なんとなく、「西東三鬼全句集」を手に取りました。

 ぱらぱらめくっていると、

 恋猫と 語る女は 憎むべし

 という句が目に飛び込んできました。

    ペットの猫を可愛がっている女。
 その人は目の前にいて、はるか遠くにいる、女はそういう方法で挑発する、といったところでしょうか。


 俳句は短歌と比べて、恋の句はあまり無いような気がします。
 自然を賛美するようなものが多いでしょうか。

 西東三鬼は、男と女をまったく異なる種類の生き物ととらえていたようで、上の句が生まれたのでしょう。

 男と女は肉体の構造が異なっている以上に、その精神性に違いがあるのかもしれません。
 こんなことを書くと、おっかないジェンダー研究者の叱責が飛んできそうです。

 不倫がばれて、その行為を異文化コミュニケーションと言い放ったのは、森本レオでしたか。
 悪びれない態度に好感が持てました。 

 私自身は、不倫の恋など面倒くさいだけなので、そういう方面に努力したことはありません。
 しかし、そういう欲求を持つ人が多くいることは知っているし、冒険心の発露と言いましょうか、背徳感に快楽を感じるのではないかと推測します。

 良からぬことを良からぬことだと知っていて、良からぬことだからこそ求めてしまう精神性。
 
 そういえば20代の頃、30歳くらいの人妻に誘われて、口づけだけはしたものの、それ以上進むのを断固拒否したところ、「勇気がない」となじられたことを思い出します。
 なかなかに色気があって、魅力的な女性だったのですが、面倒事は嫌だったのです。

 その後数年して結婚しました。
 結婚直後、変にもてるようになったのですが、あれは何なのでしょうね。
 もちろん、私はそんな誘惑に落ちることもなく、男女のことに関しては、さざ波ひとつたちません。

 女性の飲み友達は何人かいますが。

 結局私は、西東三鬼とは違って、男女の機微が分からぬ朴念仁ということでしょうか。
 でもそのほうが、平安な心を維持できるような気がします。