恐怖症と谷崎文学

文学

 世の中には様々な恐怖症を持った人がいますね。

 一般的なところでは、高所恐怖症や対人恐怖症、水を異様に怖がる人や、暗い場所を怖がる人、日本にはあまりいませんが、欧米では広場恐怖症という人が大勢いるようです。

 私は病気というほどの強い恐怖ではありませんが、斑点恐怖症先端恐怖症と言われるような気持ちを持っています。
 斑点恐怖症とは、虫がたくさんあつまっている所とか、イクラ丼とか、大雨とか、粒々がたくさんあると、ぞっとすることです。
 この前ペットボトルのお茶を箱で買って、ふたを開けたらペットボトルの蓋がきれいに並んでいるのが粒々に見えて、非常に不快な思いをしました。
 ひどい人になると粒々を見ただけで熱が出たりするらしいですから、不快に思う程度はなんてことないのですが、やっぱり気になります。

 先端恐怖症を意識したのは、中学生の頃、谷崎潤一郎「春琴抄」を読んだときですね。

 「春琴抄」は盲目の三味線の美人師匠と、それに仕える丁稚の佐助の物語ですが、ある時春琴が熱湯を浴びて顔に大やけどを負い、それ以来人と会おうとせず、佐助と会うことまで嫌がるに及び、春琴を慕い尊敬する佐助は、自ら針で目を突いて盲目となり、春琴は盲目ならばと、佐助を傍におくようになる、という話です。
 この二人、肉体関係があるらしく、春琴は佐助とそっくりの子供を産みますが、二人とも頑として関係を認めず、子供は里子に出し、夫婦になることもなく、師匠と弟子兼お世話係として長く添い遂げます。

 この作品は一般に佐助のマゾヒズムを格調高い芸術作品として描いた作品と解釈されています。

 そのマゾヒズム的喜悦の絶頂である、佐助が目を針で突くと言う行為に、少年だった私は戦慄したわけです。
 
 それ以来、針でも錐でも、先が尖った物を強く意識するようになり、おかげで今も針に糸をとおすことができません。

 粒々といい、尖った物といい、じつは世の中にはあふれています。
 開けたばかりの煙草の箱に、びっしりと煙草が詰まっているのも、削ったばかりの鉛筆の先も、私には不快な物です。

 しかし谷崎的美意からいえば、不快な物に進んで身を投じることこそ、美しいのかもしれませんねぇ。
 でも怖いものは怖いですからねぇ。

  一体谷崎潤一郎は、「痴人の愛」にしても「異端者の悲しみ」にしても、かなりストレートに女神もしくは悪魔のような女性に翻弄される男のマゾヒズムを描いた作品が多いですね。
 そのマゾヒズムは、三島由紀夫「破滅に向かって突き進んでいく者だけが美しい」という自滅を美とする考えと、少し違っているように思います。
 谷崎的美は女性的であり、三島的美は男性的です。
 私はその両方を愛しながら、しかしどちらにも共感できないでいます。

 どちらも凡人たる私には激しすぎるのですよねぇ。
 もう少し穏やかな美を、好みたいと思っています。 

春琴抄 (新潮文庫)
谷崎 潤一郎
新潮社
痴人の愛 (新潮文庫)
谷崎 潤一郎
新潮社
刺青・秘密 (新潮文庫)
谷崎 潤一郎
新潮社

「異端者の悲しみ」が所収されています。

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