昔から、情けは人のためならず、と申します。
他人に親切にすれば、めぐりめぐって自分の利益になる、ということでしょうか。
このたび、概ね誰にでも親切な小学生とそうではない小学生に対する友人の態度の違いに関する研究成果が発表されました。
それによると、いつも友人たちに親切に接している子供に対しては、友人たちも親切に接し、しかも親切な友人を持った子供は、その親切な子供だけではなく、他の子供にも親切に接するようになるそうです。
素晴らしい正の連鎖ですねぇ。
最近、暴力を受けて育った人は自分が親になると子供に暴力をふるうことが多いとか、負の連鎖の話ばかりでしたから、久しぶりに良い話を聞きました。
子供に限らず、誰もがそうでありたいと思います。
私には子供がいませんが、私は親から叱られた記憶がほとんどなく、当然手を上げられたことなど一度もありません。
そのため暴力に対するハードルが極めて高く、さらには争いごとを好みません。
ただし、喧嘩を売られた時は別です。
売られた以上、買うしかありません。
かつて私に暴言を吐いた上司に対し、弁護士を立てて公文書による謝罪と損害賠償を求め、謝罪文と損害賠償100万円を勝ち取ったときなどは、売られた喧嘩に過剰に反応した好例です。
喧嘩であっても、その場で怒鳴り合いをするのではなく、その場は大人しく引き下がり、現代の社会通念に従って、最も効果的に相手にダメージを与えるのが私のやり方です。
職場では派手にやったわけですが、ごく幼い頃の兄弟げんかを別にすれば、家族や親族、友人と喧嘩したことなど、一度もありません。
同居人とも、一緒に暮らして15年、一度も喧嘩したことがありません。
身内と喧嘩しなければならない理由など、何一つありません。
同居人は小学生くらいまで、かなり激しい躾というか虐待に近い扱いを受けてきたそうで、「もし子供が出来たら、殴ってしまうかもしれない」、と不安がっていました。
幸か不幸か、いない子を殴ることはできませんし、いない子に悩まされることもありません。
もちろん、子の成長を見守る喜びもありませんが。
しかし、我が家はお互い正規雇用で働く共働き。
それに特別子供好きというわけでもありません。
夫婦漫才のように、競ってつまらぬ話をし、相手を笑わせ、笑ったほうは「参りました」、と頭を下げるのが私と同居人の流儀です。
私には9つ下の弟がおり、赤ん坊から幼児、小学生くらいまで、ずいぶん可愛がり、そのせいか進学も就職も私の意見を素直に聞いてくれました。
不思議と、弟は父や兄とは激しく言い合ったりしていましたが、なぜそうなるのか不思議でした。
子育てとはこんな感じ、ということを、年の離れた弟の存在が、私に教えてくれました。
概ね、私の子供時代は幸せであったと思います。
今も、客観的には幸せなんでしょうねぇ。
堅い仕事について30歳で4LDKのマンションを購入し、車通勤のためラッシュの苦しみもありません。
気の合う女性と二人きり、気ままに暮らしています。
しかし、主観的にはなかなか苦しい日々を送ってきました。
精神障害を患いましたし、少年時代から抱えている根源的な闇は、今でも折あらば隙あらば、私を苦しめようと待ち構えているかのごとくです。
この世に60億の人がいれば、60億とおりの悩みや苦しみがあるはずで、100%幸せだ、なんて言う人はほとんど存在し得ないし、存在すればそれは少々オツムが弱いのでしょう。
情けは人のためならず、という言い古された言葉を改めて心に刻みたいと思います。