惑う

思想・学問

   生きる意味、みたいなことについては、誰もが一度は考えたことがあるでしょう。

 大学を出て、安定した職業に就いて、結婚もしてマンションも買って。
 精神障害もほぼ克服して。
 子宝には恵まれなかったとはいうものの、私は表面的にはしっかりと生きてきたように見えるでしょうね。

 食うや食わずのような状況に置かれていると、安定して食えるようになることが人生の目標になるので、かえって生きる意味を考えないようになるそうです。

 むしろ先進国などの豊かな社会のほうが、生きがいとか生きる意味について思い悩む人が多いのだとか。

 そして一般的に、思春期、中年期、老年期にそういった思いが強くなるんだそうです。

 思春期については、まぁ、当たり前と言えます。
 中年期は、ある程度の社会的地位や収入を得て、このままこうして生きるためだけに働き、老いていくのか、という絶望感から。
 老年期は、引退しているためか、自分は世の中に必要とされていない、死んだほうが喜ばれる、という悲哀から。

 なんだかこのところ、私は生きがいだとか、生きる意味だとかをぼんやりと考えて、とてつもない落ち込みに入り込むことが多くなりました。

 まさに中年期の葛藤。
 あるいは男性更年期でしょうか。

 こういうのには抗うつ薬も抗不安薬も効きません。
 あまりに根源的な問題に、薬など無意味です。

 仏教では悟りを開くことが人生の最終目標とされますね。
 至高体験を求めるのがマズローの心理学。
 人生に目標などない、というのがニヒリズム。

 その他あらゆる宗教や哲学が人生の意味について様々な論を展開しています。
 それはほとんど無数というくらい。

 中には人生の意味を探すことが人生の意味だ、なんて頓智のようなことを言う人もいます。

 しかし百万冊の宗教書や哲学書を読んでも、その人個人の生きる意味を見つけることはおそらく出来ないでしょう。

 私の主治医である精神科医は、「ハッピー感を感じながら生きられるようになることが大切です」などと、単純で間抜けな言葉を念仏のように繰り返しています。
 でもそれはそうなのでしょう。

 毎日ハッピーなら、そもそも生きる意味なんて考えることもなくなるでしょうから。

 でも週5日フルタイムで働いて、毎日ハッピーな人なんて滅多にいないと思います。
 いたとすれば、よっぽど得意で好きなことを仕事にしている人か、あるいは少々オツムが弱い人なのではないでしょうか。

 この葛藤が、単なる精神のバイオリズムの悪戯であることを強く願います。
 そうであれば、バイオリズムによって、葛藤は消えていくでしょうから。

 でももし、これが半ば永続するようなら、仕事にも支障をきたすことになるでしょう。

 論語には、四十にして惑わず、と書かれていますが、私は48にして多いに惑い、迷妄の森を彷徨っているようです。

論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)
谷口 広樹
角川書店


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