惚れるということ、誠に怖ろしいことだと思います。
特に思春期に惚れると、もはや正気の沙汰ではありえません。
しかしだからこそ、思春期の早い時期に、狂気の沙汰を経験すべきでしょう。
それは学校や親は教えてくれない、自ら学ぶしかない、しかし生きていくうえで重要なことだからです。
惚れるというのは誠に不思議なもので、相手が美男美女だからなんてことはほとんど関係なく、ちょっとした仕草や言葉がきっかけで、急激に恋に陥ってしまいます。
そうなってみて、一体何事が自分に起きたのだと、戸惑うものです。
そして恋の切ないところは、片恋があまりにも多いことでしょう。
おのれがいくら相手に惚れても、相手にとっては迷惑でしかなく、相手はどうにか断ろうとし、おのれはどうにか落そうとするのです。
それは全く不毛な努力でありましょう。
少し目鼻の効く者は、この相手なら落ちるに違いないと、わずかな会話で直感してしまいます。
どういうわけか私にもそういう才能があるのですが、私は女性関係に関してはグルメゆえ、不細工な女性が簡単に落ちると直感しても、放置してきました。
そのため、最も激しく女性関係を求めていた20代半ばの頃、私の女性たちからの評判はひどく悪いものでした。
自分で振返っても、ずいぶん鬼畜な行動に出ていたので、やむを得ないと思います。
私は28歳で年貢を納め、今の同居人と籍を入れなければならない仕儀と相成りました。
しかしその後15年、私のような我儘で傲慢な男が、喧嘩一つせずにうまくやっていられるのですから不思議なものです。
躁状態に陥った時には、昔とった杵柄で、ひどい女遊びを繰り広げました。
女性を落とす方法は、精神障害発症のはるか前に、身に付けていましたから。
それが発覚した時、同居人は、病気を憎んで人を憎まずとばかり、私の愚行を許しました。
離婚を覚悟していた私には、なんと心の広い女なんだと、驚かされました。
その時、初めて私は同居人1人に惚れているのだと気付きました。
つまらぬ遊びは、その一瞬は面白いものですが、そんな物の為に同居人との関係性を失ってはいけないと、心の底から思いました。
ここ4年ばかり、私は愚かな遊びを控えています。
正直、好みの女性が営業で現れたり、非常勤職員で雇用されたりすると、昔の悪い癖がうずきます。
しかしただうずくだけで、私は何もせず、日々の同居人との生活を第一に考えられるようになりました。
私の過去の悪行を考えれば、驚愕すべき事態です。
でも多分、それが年を取ることであり、成長であり衰えなのだと思います。
それなら私は、やっとたどりついた小市民的な小さな幸せを大事にしなければならないと、思うのです。