意識の変容

文学

 明日は青山の某ホテルで会議。
 直行直帰のため、余裕があります。

 昨日は振替休日だったため、今週は職場に普通に出勤するのは三日だけです。

 昨夜、振替休日ということで、早い時間から飲み始め、早い時間に終えるつもりが、結局終わりの時間はいつも通りで、飲んだ量が増えただけでした。

 そのため、今日はなんとなくだるい一日で、私は誠に愚かな酒飲みであることを痛感させられた次第です。

 それでもどうにか一日をやり過ごし、今日は飲むまいと思いながら、やっぱり一杯やってしまったことは、痛恨の極みです。
 もっとも、さすがに今日はいつもより少ない酒量で止めましたが。

 きっと私は、酒の飲み過ぎで命を縮めるのでしょうね。
 分かっちゃいるけど止められないというのが、正直な気持ちです。

 わが国において、合法ドラッグは酒だけです。

 習慣性や依存性の高さ、体に与える悪影響などを総合的に勘案すると、酒以上に安全で習慣性が少ない違法ドラッグはあまた存在します。

 例えばマリファナ、それにエクスタシー。

 1960年代に流行したLSDはバッドトリップと呼ばれる辛い幻覚を見る機会が多いことで、一部からは忌避されつつ、良いトリップも多かったことから、多くの若者がLSDに手を出しました。
 今となっては古典的な違法ドラッグで、入手することすら困難です。

 私は日々真面目な公的機関の職員として職務をこなしながら、終業後くらいは意識の変容を求めてしまい、最も安易に手に入る合法ドラッグであるところの酒を欠かすことができません。

 敬愛する歌人、若山牧水は、朝2合、昼2合、夜6合もの酒を喰らい、ついに43歳ではかなくなってしまいました。
 彼が残した紀行文には、いつかは酒を止めなければいけない、という言葉が頻発します。

新編 みなかみ紀行 (岩波文庫)
池内 紀
岩波書店

 しかし彼は、ついに酒を止めることなく、死に至りました。

 人間が意識の変容を求めるということ、それはすなわち現実逃避であるに違いありません。
 それはいかにも虚しいことですが、虚しいと知っていても、わずかな時間、それを求めてしまうのも、弱い人間の性かと思います。 

 私は愚かな酒飲みの気質に生まれついてしまったらしく、酔わない夜とてありません。
 このまま愚かな飲酒を続ければ、早晩、死に至る病を得ることくらい分かっているつもりです。

 それでも夜を素面で過ごすことがなんだか怖ろしく、愚かな酒を飲んでしまうのです。

 今宵もずいぶんウイスキーを飲んでしまいました。
 
 あぁ、この世のありとあらゆる合法、違法のドラッグを手に入れ、現実逃避のトリップを繰り返したいものです。

 なんとなれば、現世は怖ろしく退屈で、つまらぬものだからです。

 ドラッグが手に入らないのならば、せめてハリボテの美しい城のような物語に逃避したいものです。

 私の人生のテーマは、まるで逃避であるかのごとくで、日々真面目に仕事をこなしている職場での私は、何かに操られた人形劇の人形のように感じます。

 それが生きるということの本質だとすれば、人間が生きるということ、あまりに過酷ではありますまいか。

 世の中には三度の飯もまともに食えない人々があまた存在し、そういう人から見ればきちんと食えている私を羨ましく感じるであろうことは、容易に想像がつきます。

 しかしそれを知りながら、私はドラッグであれ、酒であれ、物語であれ、美術であれ、つまらぬ現実から逃避し続けたいという暗い欲求から逃れる術を知りません。

 私には、現実に適応するためにおのれの暗い欲求を抑えることなどもはや不可能なのです。

 そんな根源的な欲求を知りながら、食うためにつまらぬ現実を渡って行かなければならないとは、地獄の苦しみですねぇ。

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