思想・学問

 ここ30年ばかりの愚かな流行歌の盛況ぶりに嫌気がさしているのは私ばかりではありますまい。
 特に聞き苦しいのは男女間の恋を表わすのに、という言葉を多用することです。

 もともとは贈り物をする、という意味で、転じて、相手を慈しむとか、ある物事に執着する、とかいう意味になったものです。
 日本では長く、親子や兄弟間、もしくは広く生命全般に対して使われる言葉でした。
 西郷隆盛の敬天愛人などは、特定の人を愛するのではなく、人類全体を愛するという意味ですね。
 仏教では、愛欲などといって、は執着を表わす言葉で、否定的に使われていました。
 男女間の場合は、恋もしくは色と言ったものです。

 明治初期、北村透谷あたりが、欧米で流行り始めた男女間の純愛という思想にとびついて、恋愛至上主義的な言説を弄して当時の少年少女を惑わせたのが、という言葉の倒錯的な用い方の始まりでしょう。
 あまたいる異性の一人だけに対してという言葉を用いるのは、あまりに排他的で、本来の用法から逸脱しています。

 そうは言っても、言葉は時代とともに変化していくもの。現在のような用法はあまりにも広く行われ、国語辞典にも変化後の旨が記載されています。

 ただどうしても、男女間の恋情や色情にの言葉を用いるのは抵抗があります。
 「愛しています」よりも「惚れちゃった」とか「恋しい」の方がしっくりくるし、相手の胸を打つのではないでしょうか。

 ギリシャ神話にしても日本神話にしても、古代の神々は性におおらかで、純潔なんて考えていませんね。
 キリスト教がセックスを生殖目的に限定しようとしたと言われますが、じつはカソリックはけっこうおおらかだったように思います。プロテスタントはそれを批判して性道徳を厳格に用いました。

 面白いことに、男女間の純愛という思想と、プロテスタントの発生と、ほぼ同時期にヨーロッパで流行ったものがあるそうです。
 梅毒です。
 ほぼ同時に日本でも、売春を公認するかわりに売春地を限定し、売春の国家管理を行おうとしました。
 性病が拡がるのは早いといいますからねぇ。

 もしも純愛という概念が梅毒によって広まったとしたら、さしずめ純愛は、コンドームのようなものでしょうか。

北村透谷選集 (岩波文庫 緑 16-1)
北村 透谷,勝本 清一郎
岩波書店

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