憂き人

文学

 私が双極性障害(昔で言う躁うつ病)に罹患していることは、何度もこのブログで告白してきました。
 とは言っても、激しい躁状態は、一度しか経験がありません。
 とにかく気持ちが高ぶって、じっとしていられない状態で、最初は病識がありませんでした。
 うつ病が治ったくらいにしか。

 しかし、主治医によるとそれは立派な病気で、治療をしないと大借金を負うほどギャンブルをやるか、風俗遊びに狂うか、大酒をくらうか、あるいはその全部をやるかして身の破滅を招くと言うのです。

 いわゆる飲む・打つ・買うの三道楽というやつですね。

 それで、恐怖に打ち震えた私は、素直に主治医が処方した躁を抑える薬を飲み始めました。
 以降、躁状態は出現していません。

 考えてみれば、うつにしろ躁にしろ、元々は高貴な感情ではなかったでしょうか。

 うつは憂愁、メランコリー、などに通じる状態で、人間にのみ与えられたもの。
 ものを考えたり感じたりするとき、人はメランコリーに沈みます。
 だからこそ、哲学者はいつも難しい顔をしているのでしょう。
 憂愁というもの、過ぎなければどこか気持ちの良いものです。

 一方、躁状態にあるとき、人は立派な仕事を成し遂げたりします。
 芸術家や政治家に躁状態がよく現れると言います。
 一種の興奮状態が、創作や法案立案、選挙戦の勝利に結び付くのでしょうね。 

 それら高貴な感情を病気にしてしまったのは、文明の進歩か、あるいは医学の発展かもしれません。

 憂き人の 横目づかひや 春ともし

 小説家にして俳人でもある、猫鮫の句です。
 憂愁に沈み、物思いしながら蝋燭だかランプだかの頼りなげな灯りを横目でぼんやり見ている、といったところでしょうか。

 憂愁には、人間が持っている根源的な感情が存在し、それゆえに人はものを考えざるを得ないのでしょう。

 しかし社会生活を営むうえで、その高貴な感情は邪魔になります。
 嫌なことや面倒くさいことをするのが仕事というもので、それに耐えなければ飯は食えません。
 何事にも前向きに、余計な感情に惑わされず、仕事に精を出すことが自然に出来る人こそ、社会は求めています。

 憂愁に浸ったり、芸術的興奮に酔いしれるなどということは、ごく一部の天才にのみ許された贅沢と言えるでしょう。

 私は凡人であるがゆえ、そのような贅沢は許されません。

 しかし、悲しい哉、私はそのような贅沢が世に存在し、ごく一部とはいえ、その享楽に身を委ねている人が存在することを知っています。

 人間というもの、よくよく不公平に出来ているものです。

 現実を、社会を、迷いなく強く生きられる人になりたいものですなぁ