我々

思想・学問

   今週も一週間が終わりました。
 金曜日の終業後ほど気分の良いものはありません。
 この瞬間のために、5日間働いていると言っても過言ではありません。

 これはサラリーマンなら大抵の人がそうでしょう。
 昔、「月曜日が、待ち遠しい」というコピーのCMがありましたが、それはワーカホリックの変態というべきで、貴重種でしょうね。

 私たち事務職は組織で動いており、我々という意識が強烈です。
 それは業務を遂行するうえで必要な意識だと思いますが、それも過ぎれば全体主義みたいな、連帯責任みたいな、我=個を殺す考えにつながってしまいますので、さじ加減が難しいところです。

 私はエキセントリックな性格にみられることが多く、我々を否定するような言動をして、叱られたり嫌味を言われたりすること度々です。
 しかし私はそんなことは気にしません。
 面と向かって言われれば反論すれば良いし、陰口ならば放っておけば良いだけですから。 

 しかし私は、我々を完全に否定したことなどありはしません。
 我々を意識することは、倫理観の維持につながるでしょうし、共同体や組織の繁栄に必須です。
 ただ、我々意識にも限度があるし、という意識も我々以上に大切であると考えているに過ぎません。

 そんなことを考えながら、根源的な疑問を持つことがあります。
 じつは全生物は根本的に繋がっており、厳密な意味でのなど存在せず、ただ我々だけが在るのではないかと。

 集合無意識や仏教の唯識を持ち出すまでもありません。

 例えば自己犠牲。
 集団のために己を犠牲にすることはいつの時代、どの場所でも称賛されるべきことでした。
 行き過ぎれば特攻隊みたいなものなってしまいますが、特攻隊の場合必ずしも一人の意志ではなく、周囲からの露骨な圧力があったやに聞き及びます。
 特攻隊の英霊を誹謗するつもりはありませんが、我々の押しつけという感じは否めません。

 それはそれとして、自己犠牲を美しいものととらえる考え方は普遍的な価値をもつものと思われます。
 を殺して我々のために、という。

 ゆとり教育華やかなりし頃、個性が大切で、個性を伸ばす教育を求める風潮が見られました。

 馬鹿げたことです。

 個性を伸ばしたければ、逆説的ですが、個性を殺す教育を施すのが最も効果的だと思います。
 殺しても殺しても飛び出してくるものこそ、個性であろうからです。

 しかし個性なるものも、共同体のなかである一定の割合の人に出現する必要なものだとしたら、結局は無く、ただ我々だけが存在するような気がします。

 私は長いことばかりを求めてきましたが、今に至って、ついに我々に埋没するほかないようです。
 そしてそれは、もしかしたらとても心地よい、甘美な境地であるのかもしれません。