我思う

思想・学問

 体調がすぐれないせいか、仕事をしていても雑念が浮かびます。
 昼休みにいたって、それはますますひどくなるようです。
 雑念が次から次へと浮かび、手がお留守になるようでは、サラリーマン失格ですねぇ。

 そういえば昔、デカルトという哲学者が、ありとあらゆる物の存在を疑い、疑いたおした末に疑いを思念しているおのれの存在だけは疑いえない、として、有名な、我思うゆえに我在りという言葉を残しました。

 そうすると雑念に悩まされる私は、まさに在る、ということなのでしょうか。

 しかしビアス「悪魔の辞典」によれば、デカルトは言葉足らずで、正確には、我思うと我思う、故に我ありと我思う、とすべきだと記しています。

 これはなかなか示唆に富んだ指摘ではないかと思います。
 何もかもを疑いながらおのれの存在だけは確からしいと感じるのは不思議です。

 浄土真宗などでは、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できると説きますが、南無阿弥陀仏と唱えている自分の口は、自分が唱えているのではなく、衆生を救いたいと願う阿弥陀仏が、衆生の口に唱えさせているのだと言います。
 ここに至って、南無阿弥陀仏と唱える行為さえ自力ではなしえず、阿弥陀仏の力=他力にすがらなければできない、絶対他力という考え方が成立します。

 この思想を知ったなら、デカルトは怒りだすでしょうか。
 それとも顔を赤らめるでしょうか。
 親鸞聖人デカルトの対談が実現したら面白いでしょうねぇ。

 この記事も昼休みの雑念が生み出した雑なものです。

 私はどうしても、我思うゆえに我在りとは考えられません。
 我思うゆえに我在り、と推測する、くらいが精いっぱいではないでしょうか。

 およそ人間の存在なんて、あやふやなものであろうと思います。
 当然、あやふやな人間が思うことなんて、存在の確からしさを担保するものなどではありえず、むしろ存在の不確実性を示しているように感じます。

 デカルトと言う人、自己の思念にとらわれた、自力の人だったんでしょうか。

 そんなくだらぬ雑念が浮かんでは消え、切りがないのでこのあたりで止めておきましょうか。
 せっかくの昼休み、少し昼寝したいですからねぇ。

方法序説 (岩波文庫)
Ren´e Descartes,谷川 多佳子
岩波書店
デカルト入門 (ちくま新書)
小林 道夫
筑摩書房

 

悪魔の辞典 (角川文庫)
Ambrose Bierce,奥田 俊介,倉本 護,猪狩 博
角川書店

 

親鸞の本―愚者・悪人をも救う絶対他力の大海 (NEW SIGHT MOOK―Books Esoterica)
学研
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