現在活躍中の小説家で、最も上質という言葉が似合うのは、佐藤亜紀だと思います。
最近は早稲田大学や明治大学の客員教授として創作の作法を教えているとか。
たいそうなご活躍です。
主にヨーロッパを舞台にした作品が多いですが、「戦争の法」は日本を舞台にしていて、しかもどこかブラック・ユーモアみたいなものが効いている異色の作品です。
平野啓一郎が「日蝕」をひっさげて颯爽とデヴューした時、佐藤亜紀は自身の作品「鏡の影」のパクリだと、小説家にとってはこれ以上ない侮辱を浴びせたことを懐かしく思い出します。
平野啓一郎は佐藤亜紀なる小説家の存在も知らないし、その作品を読んだこともないし、今後も読むことはない、と完全否定しました。
佐藤亜紀はこれに対し、盗作をしたかどうかはともかく、彼が嘘つきだということははっきりした、と言って応戦しました。
「鏡の影」も「日蝕」も新潮社から出版されていたところ、新潮社は「日蝕」の出版に合わせるように「鏡の影」を絶版にしてしまいました。
二人を比べて、平野啓一郎の将来性に賭けたということでしょうか。
しかし、現在の活躍を見る限り、新潮社の判断が正しかったとは言い難い状況です。
「戦争の法」では、1970年代、N県が突如日本からの独立を宣言、日本とN県が戦争状態に陥ります。
N県には当時のソビエト連邦から大量の兵が送り込まれ、日本軍はこれに対するためにゲリラ戦をしかけます。
戦争の悲惨さや非人間性を、乾いた硬質な文体で笑い飛ばすその器は、まさに上質な小説の名に恥じないものです。
小説を読むということの醍醐味を堪能させてくれる、お手本にしたいような文体、ストーリーの面白さ、小説としてほぼ完璧なのですが、その完璧さが「戦争の法」の難点になっています。
千利休はきれいに掃き清められた庭園を良しとせず、わざと落ち葉を散らしたとか、一部欠けた茶碗を好んだとかいう話を聞きます。
小説にも茶器や茶の舞台装置に通じるところがあって、どこか破綻している点があるほうが、魅力的だったりするのですよねぇ。
同じく現在活躍中の小説家では、小林恭二がそれにあたるような気がします。
デヴュー作の「電話男」なんて、小説としてはほぼ破綻しています。
しかしその破綻がたまらない魅力なのですよねぇ。
私は佐藤亜紀を尊敬し、小林恭二を偏愛するものです。
平野啓一郎は、敬遠しているかんじですかねぇ。
![]() | 戦争の法 (新潮文庫) |
佐藤 亜紀 | |
新潮社 |
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佐藤 亜紀 | |
講談社 |
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平野 啓一郎 | |
新潮社 |
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小林 恭二 | |
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