戦争は政治の延長か、文化か?

思想・学問

  今日は仕事始め。
 とは言っても、今日・明日出勤すれば3連休なので、なかなかお仕事モードになりません。

 今年は平昌オリンピックが行われ、北朝鮮がどういう対応をするかまだ見えてきません。
 仮にオリンピックに出場して、オリンピックでのテロ行為は行わないにしても、またミサイルを発射したりして、日米韓を刺激し、国際社会で非難されるであろうことは確実でしょう。

 全く厄介な国です。

 かつてクラウゼヴィッツは「戦争論」において、戦争とは、異なる手段による政治の延長に他ならない、と書きました。

戦争論〈上〉 (中公文庫)
Carl von Clausewitz,清水 多吉
中央公論新社

戦争論〈下〉 (中公文庫―BIBLIO20世紀)
清水 多吉
中央公論新社

 これは国家と国家が同じような主義の元に互いの利益を追求した場合に当てはまる言葉だと思います。
 例えば帝国主義国家同士が利益をかけて戦う、みたいな。
 二つの世界大戦はそのようなものだったと言えると思います。

 しかし、現代の戦いはそんなに単純なものではありません。
 宗教によるテロだの、民族主義によるものだの。

 オセチアと南オセチアが戦争している、なんていう話は日本人には理解できませんが、大抵、どこの地域でも隣国とは仲が悪いものです。

 ホイジンガという学者は、戦争は政治の道具以上のものであり、文化的に決定されたゲームのような性質を有している、と喝破しました。

 そもそも、戦争という行為は、それが悪であっても、人類の普遍的な営みだと言え、そこにはそれぞれの文化や宗教、基本的な物の考え方が深く影響していると思われます。
 また、政治の延長、とするには、あまりに情緒的な面を強く持っています。
 敵への憎しみだとか、自国の名誉だとか。
 だからこそ、軍人には勲章を与えるなどして、その名誉を讃えるのでしょう。

 そうすると、互いの利害を調整するだけでは、戦争を防ぐことは出来ない、ということになろうかと思います。

 対立する相手の言語や文化、宗教や歴史を学ぶことが死活的に重要になってくるでしょう。
 相手の思考パターンを知り、何が相手に戦うことを決意させるのかを推測する、その材料が必要です。

 もちろん、政治的な利害の調整も必要ですが、それに加えて、戦争を人間の文化の一つとして捉えることで、互いの文化への理解を深め、力による抑止と併せて、文化による抑止を、これからの指導者は模索していく必要があるものと思われます。


にほんブログ村


政治ランキング