捨てる

文学

 今日は穏やかに晴れた小春日和 でした。
 朝一番で散髪に行き、買い物をしたり昼寝をしたりしてのんびり過ごしました。
 16時半から精神科の診察があるため、出かけなければなりません。
 面倒くさいですが、精神病薬は私にとって生活を維持せしめるために必要不可欠なもの。
 行かないわけにはまいりません。

 今日はクリスマスイヴなのですね。
 今でこそクリスマスイヴなんて言っても穏やかなものですが、バブルの頃は恋人と過ごす日と決まっていて、相手がいない者は非人のように扱われたものです。
 私はそんな風潮に反感を持ち、毎年静かに読書などして過ごしていました。

 大体クリスマスと言えば異教の祭り。
 わが国の人々はほとんどが無宗教ですから、そんなものにかこつけてバカ騒ぎをするなど、お門違いも甚だしいというものです。

 クリスマスと言い、正月と言い、季節の風物詩を大事にるのは結構なことですが、それも一種の捕らわれに過ぎません。
 クリスマスはこう過ごすべき、正月はああすべき、という。

 翻って人間と言う者、なんと多くの物に捕らわれていることでしょうか。
 正規の職について、結婚して子供をもうけるのが幸せだという固定観念に捕らわれ、そうでない者を馬鹿にしたり。
 サラリーマンで言えば上位の肩書を欲しがったり高い年収に拘ったり。
 私もサラリーマンの端くれですから、そういう気持ちも分からないではありません。

 しかしそんなもの、何の役にもたちません。
 三食食えて、寒さをしのげる家があれば十分なはずです。
 悲しいかな、それでも人はより多い収入、より高い地位を求めて、おのれの小さな欲望を隠そうともしません。

 お釈迦様は29歳の時、妻子も王族という地位も捨て、出家しました。
 出家というのは、執着を捨て去ろうということです。
 我々凡人には出来ません。

 禅に放下著(ほうげじゃく)という言葉があります。
 何もかも捨ててしまえ、という意味になろうかと思います。

 ある時、ある坊主が高僧に、何もかも捨てたのに、放下著と言われてももはや捨てる物がない、と異論を唱えたところ、「何も持たぬというその意識すら捨ててしまえ」と説きます。

 苛烈な言葉です。

 人間、生きていれば様々な物を担いでいかなければなりません。
 財産、肩書、親族や友人との付き合い。
 これらを全て捨て去ることは不可能で、放下著というのは、現実に全てを捨て去れということではなく、おのれが担いでいる物を誰に任せるでもなくただ担ぎながらそれに執着するな、という意かと思います。

 私は単なる俗物に過ぎませんから、捨て去れと言われても戸惑うだけだし、多くの人がそうなのだろうと思います。
 ただ、仕事や人間関係、あらゆる物から逃げ出したい、と思うことはしょっちゅうです。

 それでも、自分の荷物は自分で担がなければなりません。
 誰も代わりに担いでくれるはずがありません。

 夏目漱石の「草枕」ではありませんが、とかくこの世は住みにくい、と思わせるクリスマスイヴです。