わが国の文学作品中に子どもへの虐待が登場するのは、明治43年の長塚節作、「土」が初めてです。
怒鳴りながら彼は突然おつぎを殴った。おつぎは麦の幹とともに倒れた。おつぎは倒れたまましくしくと泣いた。
それまではわが国文学中に子どもを殴るという行為は見られません。
戦国時代の宣教師ルイス・フロイスや明治のお雇い外国人は、日本では子どもへの体罰が見られないことに驚嘆の意を表明していますが、文学上もそれらの指摘と一致しています。
明治末期になって子どもへの体罰が見られるようになったのはなぜでしょうね。
欧化政策が当たって、教育にも欧米流の体罰で躾ける流儀が定着したのでしょうか。
それとも新興帝国主義国家として列強の一角に名を連ねるにあたり、兵士でもある国民を軍隊流の鉄拳制裁でしつけようという風潮が興ったのでしょうか。
今となってはわかりません。
しかし子どもへの体罰・虐待は法がこれを禁止しているにも関わらず、一部教師などは愛の鞭だなどと倒錯したセリフを吐いて、これを正当化しています。
大きな間違いです。
体罰は法律違反なのです。
許されるのは、生徒が明らかな害意をもって襲ってきた場合に正当防衛としてこれに対する時だけ。
学級崩壊などで現場の教師たちが疲弊していることには同情を禁じ得ませんが、法律は法律です。
体罰はさらに虐待にまで進み、精神を病む子どもや、ひどい場合には親に虐待の末殺されてしまう子どもまでいます。
ここまでいくと躾けとかいう問題ではなく、殺人事件であり、傷害事件です。
明治末期、わが国の親や教師は時代の要請に従ってパンドラの函を開けてしまったかのごとくです。
それが平成の御代も24年目になろうとして、怖ろしいほどの勢いで悪化し、日本社会に暗雲を垂れこめさせています。
明治初期のような、子どもに手を上げるなんてとんでもない、という風潮にまで戻すことは難しいでしょう。
しかし少なくとも、傷害事件や傷害致死、殺人にまでいたるような極端な虐待については、怖ろしくてできないような社会の目というか常識が必要だと感じます。
文学作品から子どもへの体罰や虐待の記述が再び消える日が訪れることを期待しています。
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