日の名残り

文学

 英国の老執事を描いたカズオ・イソグロの小説「日の名残り」を読み終わりました。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)
Kazuo Ishiguro,土屋 政雄
早川書房

 スティーブンスはダーリントン・ホールと呼ばれる大きなお屋敷に仕える執事。
 時代は1956年の7月。
 何十年もこのお屋敷の主、ダーリントン卿に仕えてきた名執事です。
 ダーリントン卿が亡くなり、屋敷は執事込みで売りにだされ、米国の実業家によって買い取られます。
 米国人は英国貴族と違って気さくな人柄で、屋敷を留守にする間、スティーブンスに車を貸すから旅行に行って来いと勧めます。

 スティーブンスは旅行などしたことがなく、戸惑いますが、新しい主の勧めにしたがって、一週間ほどの自動車旅行へと出かけます。

 旅行の様子が描かれるとともに、1920年代から1956年の現在までの様々な思い出が語られます。

 第一次大戦、第二次大戦、二つの世界大戦を経て、かつての日の沈まない帝国は、すっかり落ちぶれてしまいます。

 女中頭がスティーブンスに寄せる密かな思い、若い女中と召使の駆け落ち、ナチ高官と英国政府高官の深夜の密談など、お屋敷では様々なことが起こり、それを職業的倫理と技術で見事に切り抜けてきたことを、スティーブンスは誇りにしています。

 自動車旅行の最後、スティーブンスは20年前に結婚のために屋敷を去った女中頭、ケントンと再会を果たします。

 じつは彼女との再会こそ、この旅の目的とも言えるものです。


 ケントンが密かにスティーブンスとの暮らしを夢想し続けた事実を知り、物語の最後、スティーブンスは海辺で夕陽を眺めながら、静かに涙を流すのです。


 この物語は、過去の出来事と自動車旅行中のことが複雑に絡み合って語られながら、物語として決して破綻しない、精緻なものです。
 そしておそらくは、悲劇を、ユーモラスに描いたものでしょう。

 大英帝国の衰退と、それに伴う英国貴族の斜陽、戦前、戦争を回避するために親ナチ的な態度を取ったがゆえに、戦後、マスコミから叩かれ、無念のうちに亡くなった主、ダーリントン卿の悲劇、そしてダーリントン卿に心酔し、長年仕えながら、卿を失い、また、ケントンとの生活を実現できなかったスティーブンスの悲劇。

 時代と、貴族と、庶民と、それぞれが悲劇を生きています。
 
 後悔の無い人生というものは、おそらくは存在しないか、存在するとしても奇跡的な例外だけだろうと思います。
 
 あの時ああしていれば、とか、こちらの道ではなく、あちらの道を選んでいれば、と思うことは、誰にでもあるでしょう。

 そういう意味では、人は皆、喜劇的な悲劇を生きていると言っても過言ではないと思います。

 であるからこそ、悲劇を喜劇的に描いたこの小説は、静かな筆致ながら、深く胸に刺さるのだと思います。

 なんでも英国最高の文学賞であるブッカー賞を受賞したんだとか。

 生粋の英国人ではなく、日系英国人だからこそ、英国貴族や執事の生態を冷静に描けたのかもしれませんね。

 ご一読をお勧めします。


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