日曜日の夜

思想・学問

 日曜日の夜が憂鬱なのは、3歳の幼稚園の頃から今、44歳のサラリーマンに至るまで、全く変わりません。

 もう40年以上、平日はどこかに通う生活を続けているのですね。

 生きるためとは言え、愚かなことです。

 人に限らす、生きとし生ける生き物は、食うか食われるかの、苦しい生活を強いられています。

 そこで人間は、哲学や宗教などを考えだし、生きている人間の生きる理屈を考えだしたのでしょう。
 最後の審判だとか、成仏だとか、それぞれに宗教によって救いは異なります。

 しかし私は、究極のところ、仏教もキリスト教もユダヤ教もイスラム教も、同じなのではないかと思っています。

 どの宗教も、人間の魂を救うことを最終的な目標にしています。

 私はもちろん、生まれ育ちゆえ、仏教、特にわが国で花開いた大乗仏教を深く信じています。

 しかしだからと言って、他の宗教を信じる人々を排斥する気はありません。

 私が大乗仏教に帰依するのと同様、キリスト教でもユダヤ教でもイスラム教でも、おのれの生まれ育ちによって、帰依する教えは異なるでしょう。

 しかし私は、人間が人間であるかぎり、ありとあらゆる宗教が、全て人間一人の幸福を願うという意味で、全く同じだと思っています。

 そうでなければ、多様な人間を救う道が複雑であることになり、それは人間が多様であることを認めるという当たり前のこととは別に、多様でありながら本質的には同一であるべき人間というものを救う道があまりにも多数存在することにってしまいます。

 私は、仏教であれキリスト教であれユダヤ教であれイスラム教であれ、その教えの細部に違いがあるにせよ、究極的には人を救うという大目標に違いは無いと思っています。

 要するに、仏教に禅門があり、浄土門があるごとく、ヤハウェの三宗教もまた、ある種の門であると考えれば、その根本は同じであると思います。

 その小さな違いをことさら問題にし、あまつさえテロなどの殺人行為にいたるのだとすれば、それは人間の愚かしさを示す証拠に過ぎず、人間の本質を見誤った愚行であると言わざるを得ません。

 私はイスラム過激派であっても、宗教が持つ共通の、そして最終的な目標を、長く話し合えば、理解してもらえるものと信じたいのです。

 
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