人間、この世に堕ちるにあたって、生まれる場所も時代も家庭環境も選ぶことはできません(一部宗教などでは、自ら選んで生まれてくるとも言われます。過酷な環境を望むのは、そのほうが修行になるからだ、とも)。
平和な時代に、豊かな国の裕福な家庭に生れ落ちるというのはこの上ない幸運です。
広い意味で言えば、今の時代に日本に生まれるということは、それだけでまぁまぁ幸運なのではないでしょうか。
殺し合いもないし、食うに困るということも滅多にありません。
そして人は、生まれた場所や時代に縛られざるを得ません。
同じ日本に生まれるにしても、時代は大きな要素です。
大正時代に生まれていれば、太平洋戦争で兵隊にとられる可能性が高かったでしょう。
私たち日本人は、日本という呪縛から逃れることは出来ません。
気候、風土、歴史、文化、言語。
私たちはおぎゃぁと生まれた瞬間から、日本語の嵐にさらされ、日本的価値観を身に着けて成長せざるを得ません。
日本人の秩序や規律を重んじる高い倫理観は世界から評価されているようですが、同時に負の側面も身に着けてしまいます。
集団を重んじて個を軽んじることや、他人の目を気にしすぎること、宗教への無関心などなど。
そして、日本語。
学生の頃、一般教養で西洋哲学を受講した際、教員が「日本語で哲学を説明することは難しいから英語で講義したい」と言い出して、学生は一斉にブーイング。
結局日本語で講義したことがあります。
その時初めて、日本語はよほど論理的思考に向かないのだなと、思いました。
時を同じくして、中古文学概論の時間に、教授が「日本語は世界一詩歌に向いている情緒的な言語だ」と話すのを聞いて、哲学の講師と国文学の教授が、逆の方法で同じことを言うのだなと、思いました。
私たちは、通常、何か考える時には日本語で考えます。
話す時も書く時も、日本語を使用します。
それを不断に続けることにより、日本人は日本人になるのだろうと思います。
かつて川端康成がノーベル文学賞を受賞した際の講演を、「美しい日本の私」と題して行いました。
美しい日本の私。
![]() | 美しい日本の私 (角川ソフィア文庫) |
川端 康成 | |
KADOKAWA/角川学芸出版 |
私たちには何の違和感も無い言葉ですが、これを西洋の言語に訳そうとすると、正確なニュアンスは伝わらないそうです。
強いて言えば、美しい日本国の国民であるところの私、みたいになると誰だか忘れましたが白人の日本文学研究者が言っていました。
また、英語圏の人々が概してオーバーアクションなのは、英語では微妙なニュアンスを表現できないからだ、という説を述べている学者もいました。
日本語は極めて繊細な言語ですから、細かなニュアンスもすべて言葉で言い表すことが出来るため、身振り手振りはあまり必要ない、とのことです。
英語が世界語になったのは、もちろん、大英帝国が世界を支配し、その後は米国が支配したからですが、その他に、英語は単純であり、比較的習得が楽だからというのも大きな理由の一つでしょう。
一つ言語をつかまえても、日本語は世界語の英語と大きく異なり、日常日本語だけで暮らしている人々の精神性に大きな影響を与えるであろうことは、容易に想像がつきます。
日本及び日本語の美しさにどっぷりつかって生きていければこんな幸せなことはありますまい。
内向きに生きていくのは淫靡ともいうべき快感がありますから。
私たちは日本という呪縛から逃れる術は持たないし、逃れる必要もありません。
逃れてしまったら、日本人としての誇りも失ってしまうでしょうから。
しかし、世界は狭くなりました。
世界を渡っていくには、私たちは日本の呪縛に囚われているのだということを自覚しつつ、さらにはそれを誇りながらも、それぞれの国の呪縛に囚われている人々と、共通の認識を持つべく努力を続けなければなりません。
それはこれまでも行ってきたことですが、情報革命まった只中の今、ますます日本人たるの自覚を高めつつ、世界との共通認識を求めていかなければなりますまい。
あぁ、面倒くさいですねぇ。