今日は昭和の日ですね。
激動の時代、昭和を思い、亡き先帝陛下の遺徳をしのぶとともに、わが国の将来に思いをいたす日です。
しかし平成の御世ももう24年。
昭和は遠くなりました。
昭和天皇は20年間大元帥陛下として陸海軍を率いていたためか、侍のように険しい表情を浮かべることがありました。
それが今上陛下には無い一面で、それゆえにこそ、今上陛下の柔和な龍顔は、平和のありがたさを感じさせるものでもあります。
私は中学生の頃一度だけ、亡き先帝陛下を、蔵前国技館で相撲観戦したおり、仰ぎ見たことがあります。
口をもごもごさせながら手をふるそのお姿は、大元帥陛下であった頃の威厳を思わせず、玉体の衰えを感じさせるに十分でした。
今上陛下の龍顔を直接拝したのは、就職したばかりの平成4年と、ずっと後の平成19年、いずれも私の職場へ行幸啓されたときのことで、ずいぶん優しげであったことを思い出します。
就職したばかりの平成4年には、皇后陛下が失語症を患っていた頃で、お忍びの行幸啓ではありましたが、多くのマスコミが押しかけて、私たち職員にまでしつこく質問してきて閉口したことを思い出します。
その時、テロリストが国立の研究機関に就職したなら、皇族などの要人を殺害するのはいともたやすいことだと思い知って慄然としました。
私がテロリストであったなら、簡単に刺し殺すことができる距離に、今上陛下の玉体は存在していたのです。
私は将来皇室は廃止すべきものと考えていますが、現在の世論を考え、過去のわが国の歴史に鑑みて、それはよほど遠い将来であろうと思います。
昔も今も、形は変わっても、皇室の存在はわが国を統治する上で極めて便利な道具ですし、為政者の立場に立てば便利な道具を手放すことなどあり得ないでしょうから。
しかし便利な道具だからこそ、いつまでも存続させるのは危険であると考えます。
左翼過激派が簡単に国粋主義に転向したり、白色テロにシンパシーを感じたりするのは、わが国においては天皇を戴けば共産主義と瓜二つの国家社会主義を達成することが簡単なことのように思えるからでしょう。
明治維新のみならず、南北朝の争いにしても、わが国で争いごとが生じると、天皇を担いで勝利を得ようとするのはむしろ当然でした。
つまり皇室の存在自体が、争いごとの種になる可能性すらあり、現に今のわが国においても、皇室のあり方やその存廃をめぐって論争が絶えることはありません。
よく子宝に恵まれない夫婦を、「無い子に悩まされることはない」などと言って慰めますが、皇室についても同じこと。
無くなった皇室をめぐって争いが生じることはないのです。
国の将来に思いをいたすとき、私は平和裏に皇室を廃止することが、将来への禍根を断つことになるのではないかと考えずにはいられません。
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!