わが国の精神文化には無常観が深く刻まれ、時とともに万物は流転していくという感覚を、この国に生まれ育った人々は自然に身につけていくようです。
過去を懐かしむのも過ぎ去った時の力によるものであり、未来に希望を抱くのも時が輝かしい時代をはこんでくれるという、時の力を信頼したものでしょう。
私はうつ病発症時、時の力によってしか、この苦しみから解放されることはないのだと知りつつ、しかし病を克服したからと言って輝かしい時を迎えるわけでもないことをも知っていました。
今、精神症状はほぼ治まって、ずいぶん楽になりましたが、平凡に過ぎいく時に感謝するほど老成してはいません。
私ははるか遠く感じられる定年の時を迎えるまで、健康で生き延びたいと願うばかりです。
亡父の蔵書から「花のもの言う 四季のうた」という本を引っ張り出しました。
文字通り四季の名歌を取り上げたものですが、巻末に、時間という章立てがなされていました。
自然を歌った悠久の時間を取り上げた歌もあれば、時間に対する個人的な感想のような歌もありました。
私は時間に対する個人的な思いを詠んだ歌に心惹かれました。
まずは三条院の、
こころにも あらでうき世にながらへば 恋しかるべき 夜はの月かな
です。
愁いの多いこの世であるが、生きていれば、今宵の名月を恋しいと思うこともあるだろう、というほどの意かと思われます。
これ、かなり絶望的な歌ですね。
愁いの多い世を生きていればいつか良いことがあるだろうというのではなく、今宵の名月を懐かしむこともあるだろう、というのですから。
では未来はますます愁いの多いものになっていると感じているのでしょうか。
しかし高貴な家に生まれながら、憂愁に沈む院の気持ちに、病を克服したはずの私でさえ、激しく感応します。
次に藤原清輔の、
ながらへば またこのごろや しのばれむ うしと見し世ぞ 今は恋しき
という歌です。
これも三条院の歌同様、絶望を秘めていますね。
長生きすれば、その時点では愁いの多い日々だと思っていても、いずれは恋しくなるのだから、今現在の愁いもまた、恋しく思われるであろう、という歌意かと思われます。
この歌もまた、憂鬱な日々→時間がたってなつかしく思う→でも今は憂鬱、という恐るべき円環を詠んでいるように思えてなりません。
これが円環状に死ぬその日まで続くのだと嘆いているわけですねぇ。
これでは救われません。
しかしその深い絶望の中に一条の光があるとすれば、両者とも、未来に幻想を抱かぬまま、今を憂鬱に感じながら、しかし生きていこうとしている点です。
生きていこうとしているその一点において、両者は時の力を信じているのではないでしょうか。
私もまた、もはや未来に幻想など持ちえません。
時の力を信じて、絶望の円環を生きていくより他、仕方がありませんから。
![]() | 花のもの言う――四季のうた (岩波現代文庫) |
久保田 淳 | |
岩波書店 |
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