時の時

文学

 今日は月曜日ですが、明後日から連休のためか、それほど沈んではいません。
 私の職場はカレンダーどおりのお休みなので、休暇を取らない限り、今日明日は出勤しなければなりません。

 しかも明日は私が主担当の重要な会議があり、この会議の委員は休暇が取れません。

 毎月第1火曜日に行うのですが、連休中くらい会議を先送りしても良いと思いますし、多くの出席者がそう思っているものと推測しますが、なかなか言い出せません。
 と言うか、私のような空気を読まない(読めないのではなく、読んだうえで逆の行動に出る)者でも、第1火曜日と決まっているがゆえに、スケジュールをすでに入れており、他の日に移されたら困る、という人もいて、それは正論なので、それを言われちゃ何も言えません。

 職場では今日、明日休暇を取って大型連休を楽しんでいる者も少なからずおりますが、私はそうはいかないというわけです。

 サラリーマンの辛いところです。

 最近、私は仕事が忙しいほうがが気持ち的に落ちつくようになりました。
 あれほど仕事を毛嫌いしていたのに。
 ついに私も仕事人間になってしまったのでしょうか。

 私は定年退職の日を心待ちにしていますが、世間で聞くように、暇で暇で退屈に耐えがたく、仕事に行っていた頃が懐かしい、だからアルバイトを始める、なんていう爺さんが結構いると聞きます。

 にわかには信じがたい心性ですが、その年になってみないと分かりません。

 散歩したり、映画を観たり、読書をしたり、旅行に行ったり、美術館に行ったり、やることはいくらでもあると思うのですが、それでも仕事に行きたいと思うのは、金が欲しいのはもちろんでしょうが、社会と繋がっている、という実感が欲しいのでしょうね。
 でも、私はそうはなりたくありません。

 石原慎太郎「わが人生の時の時」という掌編集があります。
 人生には絶頂感を味わうような瞬間があって、それを時の時という言葉で表したものと思います。

  コリン・ウィルソンが言う「至高体験」との類似性を感じます。

  ただし、「至高体験」はノンフィクションであり、「わが人生の時の時」はフィクションであるがゆえ、後者のほうがはるかに読みやすく、面白く描かれています。

 私は一般の月給取りの大半が、時の時を得るのは、定年退職後に決まっていると思ってきました。
 今もそう思っています。

 しかし万が一、仕事中にこそ時の時至高体験を感じるのだとしたら、とても悲しいことですね。

 それは自分の本当を失っているのだとしか思えません。
 近頃、自分もその一人になるのではないかと怖くて仕方ありません。

 そうなるのだしたら、私の人生は本当につまらないものだったことになります。
 もっと言うと、例え老後が生き生きとして楽しいものになったとしても、私の人生は結局暇つぶしに過ぎなかったのだろうと後悔し続けるのではないでしょうか。

   生き甲斐とか言うもの、持っている人のほうが圧倒的に少ないのではないかと思います。

   私の叔父に、信用金庫の支店長で定年退職し、その後少し大きな病院の事務長に天下り、75歳でそこを退職したら、迎賓館の清掃の仕事を始めた人がいます。
  常にアイドリングし続けているような、じっとしていられないタイプの人で、なぜこの人は後期高齢者になっても働き続けるのだろうと不思議でした。

しかし叔父にとって仕事をしている時こそが時の時なのかもしれません。

そこまで頓悟できれば、私のようなネガティブな思い癖は、とてもくだらないことなのかもしれません。

どうか叔父のような鋼の精神を身に着けたいと願います。