時間を超越すること、あるいは恋愛譚

文学

 私が住むマンションの真ん前に、蕎麦屋とイタリア料理店があります。
 休日の昼は、どちらかで食べています。

 で、近頃気づいたことですが、コロナが流行して以来、イタリア料理店は明らかに客が減り、今や閑古鳥となり、その営業は風前の灯火と思われるのにたいして、蕎麦屋は今も以前と変わらず、繁盛しています。
 これは不思議な現象です。
 どちらも安価で美味なのですから。

 世の中、不思議な現象に満ちています。

 初めて会うのに、昔から、いや前世からの知り合いのごとく、初めて会った気がせず、最初から親近感を覚える、あの現象も、考えてみれば不思議な話です。

 これは、大抵の場合、男女の浪漫的な恋愛譚に現れるものです。

 女は待ち続けていた男に出会ったと喜び、男は探し求めていた女に出会った、と言うような。

 恋愛というのは脳が一部馬鹿になった状態でしょうから、恋愛感情によって破壊された脳が、初めての相手なのに既視感を覚えさせ、それを運命的出会いと呼び、二人は恋に落ちていくというわけです。
 しかし多くの場合、その感情は長続きせず、別れてしまうか、別れるのも面倒くさいから惰性で一緒にいるか、どちらかにならざるを得ません。

 切ないことに。

 私も初めて会う女性に既視感を覚えたことが、何度かあります。
 それは、世界中で生きる人間が、私とその女性だけであるような、陶酔を覚えさせる、麻薬のような状態でした。

 しかしながら、少し付き合うと、陶酔感は醒め、恋愛感情を失い、別れるか、飲み友達になるか、という結末が待っていました。

 あの不思議な既視感は、なぜ起こるのでしょうね。

 生殖のため?
 人間ならだれもが持つ根源的な孤独感を減じせしめるため?

 どちらも違うような気がします。
 
 おそらくは、時間の無い世界を求めているのだろうと思います。

 時間に拘束され、死に向かって突き進んでいくしかない人間にとって、時間の概念を錯綜させ、あるいは時間から自由になって、理想的な世界を築き上げたいという欲求が、好みの異性との出会いを、時間を超越した、ロマンティックなものだと錯覚させているように感じます。

 しかし、えてしてロマンティックな始まり方をした恋愛は、最初の一瞬こそが最高の時であり、後は醒めていく過程でしかなく、時間を超越させるどころか、退屈な時間に囚われるおのれを省みて、恋の切なさを痛感させられるのではないでしょうか。

 私は平凡な職場結婚をしました。

 それは時間を超越させるようなロマンティックな始まり方をしたのではなく、一緒に働いているうちに、少しづつ魅かれあうようになった、という俗っぽいものです。
 俗っぽく、相手に過剰に期待しませんから、別れる理由がなく、別れる理由が無いから一緒にいるという、燃えるような恋の延長としての結婚を夢見る少年少女からは、つまらぬ結婚生活に感じられるでしょうね。 

 しかし平凡というのは強いものです。
 平凡であるということは、大多数に属しているということで、それは精神の安寧を感じさせるに十分なものです。

 私にはかつて、強烈な既視感を覚えて、激しく求めた女性がいました。 
 しかし彼女は、私との短い恋愛の後、私に別れを告げ、行方知れずになりました。
 もう30年以上昔の話です。
 生きているのか死んでいるのかも分かりません。

 時折、彼女のことを思い出し、彼女は私と別れ、身を隠すことによって、永遠に私を支配しようとしたのではあるまいか、という感慨に囚われます。
 もしそうなら、その試みは半分くらい成功しているように思います。
 こんな記事を書いていること自体が、その証拠ではないでしょうか。

 もう私には、時間を超越させるような、激しい既視感を持たされるような、そんな出会いは無いでしょうね。

 多くの人がそのような体験をする若い時代を、輝かしい時代だと考えるならば、私たち中年世代は、ただメランコリーに沈むだけです。 

 そのメランコリーから脱することが出来た時、初めて人生の真実に気づくのかもしれません。
 今の私には分かりませんが。