暴走老人

文学

 田中文部科学大臣、石原都知事の言動を、暴走老人と称しましたね。
 言いえて妙と言うべきでしょう。
 もっとも、そう言い放ったご当人も暴走おばさんではありますが。

 みんなの党やら日本維新の会やらたちあがれ日本やら、どうやら民自に対抗できそうな勢力が揃ったと思ったのか、都知事の職を放り出してそれらの神輿に乗ろうという考えが見え見えです。

 石原都知事と言う人、気骨があり、発信力があり、カリスマ性もあるようですが、少々頭に血が上りやすい質のようで、今度の行動も逆上気味です。

 老人性の判断力の衰えを感じますねぇ。

 17年前、国会でこの国の政治のありようを痛烈に批判して辞任した時も、その片棒を担いでいたのはお前だろうがと、ツッコミをいれたくなりました。

 月日は流れ、都知事を13年も勤めて、やっぱり国政の場でなければ政治のありようを変革できないと気付いたとは、少々オツムが弱いのではないかと思います。

 もともと都知事は芥川賞を受賞して小説家として世に出ました。
 小説家というのは読んで字のごとく、小さな説を述べる人ではないんでしょうか。
 それが国家国民を論じるだけならともかく、権力も欲しいとなると、穏やかではありません。

 諸外国の例を見ても、小説家やら芸術家やら言う人が権力を握ると碌なことがありません。
 ヒトラーも若い頃は絵描きを目指したり建築家を目指したりした芸術家気取りの小男でした。

 芸術家が権力を握ると、おのれが理想とする浪漫主義国家を築こうとして、えてして国民をミス・リードしがちです。

 霞ヶ関の官僚による国家支配を打破するなんて言っていますが、話が逆ではないでしょうか。

 官僚は法律に基づいて行政を行う人。
 政治家は法律を作る人。
 法律を作るべき政治家が、おのれの職務を役人に丸投げして、なぜか行政官でしかない官僚に法律を作らせ続けた結果が現在のわが国です。

 それに、縦割り行政の役人が、省庁の壁を越えて結託し、国家のグランド・デザインを作ることなどできはしませんし、過去にも行われていません。
 自分が属する省庁の利益になることだけを考えているに過ぎず、官僚支配というのは要するに幻想です。

 戦中においても軍部が日本を支配したようなことを中学で教わりましたが、陸軍も海軍もそれぞ勝手に動いていただけで、国家を将来どういう方向に導こうかなどと大それたことはしていません。

 東京裁判で戦勝国はドイツにおけるナチのような、国家の意志として日本を導いた軍部による共同謀議があったはずだとさかんに宣伝しましたが、ついにそのような証拠はでてきはしませんでした。

 当たり前です。

 わが国がドイツなみにきちんと共同謀議をめぐらせていたならば、あんな無残な負け方はしなかったでしょう。

 戦中においても、現在においても、選良たるべき国会議員がその職務をきちんと全うしないから、軍部独裁だとか官僚支配だとかいう幻想があたかも真実であるかのようにまかり通るのです。

 官僚支配という、鵺のような、存在するかどうかすら定かではない悪を無理やり仕立ててそれを攻撃する暇があるなら、有権者の前で政策の話を一切せずに自分の名前を連呼したり、やたらめったら握手したりせず、静かにこの国の越し方行く末に思いをいたし、古今の名著にふれたらどうですか?

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