月見草

文学

 今朝の千葉市は雨が降り、ずいぶん涼しかったですねぇ。
 すぐに晴れて暑くなりましたが。
 夕方からまた雨の予報が出ています。
 なんだか夏と秋がせめぎ合っているようです。

 そこで、若山牧水のこんな歌を。 

 青草の なかにまじりて 月見草 ひともと咲くを あはれみて摘む

若山牧水歌集 (岩波文庫)
伊藤 一彦
岩波書店

 月見草と言えば俳句では晩夏の季語とされいます。

 ストレートに月見草を詠んだ句というと、高浜虚子の、

 開くとき 蕋(シベ)の 淋しき 月見草   

虚子五句集 (上) (岩波文庫)
高浜 虚子
岩波書店


虚子五句集 (下) (岩波文庫)
高浜 虚子
岩波書店

 蕋とは雄蕊、雌蕊の蕋です。

 どちらも晩夏の寂しさを詠んでいるように感じられます。

 それはおそらく、春愁秋思の、秋思の前触れともいうべき現象で、元々は白楽天の漢詩に見られる言葉ですが、大陸の人々は文化大革命などで、古い価値観や美意識を捨ててしまったようで、むしろ現代ではわが国に見られる独特の感覚になってしまったようですね。

白楽天詩選 (上) (岩波文庫)
川合 康三
岩波書店

 

白楽天詩選(下) (岩波文庫)
川合 康三
岩波書店

 世の移ろいは不思議なもので、偉大な文学や芸術、建築などを生んだ大人(たいじん)の国であったはずの中華民族の国は、今、遅れてきた帝国主義国家のごとくに傍若無人にふるまって、世界の文化文明をリードしてきた偉大な精神性は見る影もありません。

 かつてわが国は、中華文明に憧れ、それを取り入れました。
 しかしわが国独自の精神性を失わないために、和魂漢才を合言葉に、せっせと国づくりに励みました。

 幕末明治からは和魂洋才と、学ぶべき相手が欧米に変りましたが、基本的には古代の和魂漢才と変りません。

 日本人の精神性を核にしながら、進んだ技術や芸術を学ぼうというわけで、その態度は謙虚でありながら、どこか傲慢でもあります。

 今、大中華文明の末裔である大陸の人々に、春愁秋思という心性は通じるんでしょうか。
 もはや通じないとすれば、寂しいことです。

 それならわが国はなおのこと、これらの心性を大切にしたいものだと痛感します。


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