「週刊朝日」が橋下大阪市長の出自などをあげつらう記事を掲載した問題で、朝日新聞出版は「週刊朝日」編集長を更迭するとともに、社長の引責辞任を発表しました。
この種の問題で社長が辞任にまで追い込まれるのは極めて異例でしょうね。
被差別部落とからめたり、橋下市長の出自に執拗に拘る報道姿勢は、差別を助長するものと受け取られるのは当然です。
どこで生まれようが、生まれ育った家庭環境がどうであろうが、親が何者であろうが、橋下市長の政治家としての姿勢に何の関係もありません。
橋下市長という政治家の政治姿勢や主義主張を論理的に非難するならともかく、なんで生まれ育ちを問題にするのでしょうね。
天下の大朝日はそういった差別や偏見と闘ってきたのではないのですか。
しかし私は、自ら堂々と自分は差別や偏見を許さない、などと大真面目に主張する人を信用していません。
差別や偏見から無縁でいられる人間など存在せず、存在しえない存在が自分だと言っているようなもので、もしかしたら差別や偏見を持っているかも、という謙虚さが感じられないからです。
私に再三再四に渡って暴言を吐いた職場のトップは、弁護士を通じ、生涯にわたって差別や偏見に強い憤りをもって生きてきており、誰に聞いてもパワー・ハラスメントなどを起こすような人間ではない、と書面で言い訳してきました。
ここには重大な間違いがあります。
誰に聞いても、という部分です。
少なくとも私に聞かれれば、私は彼を暴力的な差別主義者、と呼ぶでしょうし、少なからぬ同僚も私と同じ意見だったからです。
つまり差別や偏見などしない、と思い込んでいる人ほどそういった言動をとりがちだということかと思います。
主観と客観の違いということは必ず起こり得ます。
自分が思う自分と、他人から見た自分は、およそ違った人間なのです。
そのことを自覚し、謙虚に自らの言動を律することが求められます。