かつて近代日本文学者は、ふるさとを詠いました。
室生犀星の、
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたうもの(後略)
しかり。
石川啄木の、
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
しかり。
田舎から東京に出てきた文学者というものは、良くも悪くもふるさとへの思い入れがたっぷりです。
しかし、マス・メディアの発達によるものか、現代文学者はあまりふるさとを意識しないようです。
その最たる例が村上春樹でしょう。
彼は京都で生まれ西宮で育ち神戸で高校時代をおくった生粋の関西人です。
しかし彼の作品からはその匂いがしません。
そもそも一連の小説群は日本ですらなく、無国籍なものに感じます。
両親が国語教師で、始終日本文学の話をするのに嫌気がさして西洋文学にのめり込んでいたとは言いますが、言葉というものは本来民族や土地に根差したものでしかありえず、バタ臭いのを売りにするのは嫌味ですらあります。
村上春樹のふるさとは、どことも知れぬ無機質な人工世界なのではないでしょうか。
村上春樹という人にまつわる存在の希薄さは、以前このブログでも書きました。
それが海外から高い評価を受けているのかもしれません。
川端康成のような日本の伝統美に固執した作家がノーベル賞をとった後、大江健三郎のような翻訳文くさい文章を書く作家が同賞を受賞しました。
村上春樹はもう5年くらいノーベル賞候補に挙がっています。
もし受賞したら、人工世界をバタ臭い日本語で書く作家の受賞ということになりますね。
ノーベル賞というのはなかなかバランスが取れているようです。
村上春樹の登場を夏目漱石以来の文学史的大事件と評した人がいました。
私は彼の作品を高く買い、出版されれば購入してきました。
日本文学に新しい伝統を刻むとしたら、それは彼の本意なのでしょうか?
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