桜の樹の下

文学

  昨日、今日と、馬鹿に暖かい日が続きます。
 私が執務する部屋は西陽があたるので、午後は暖房いらずです。
 こんな風に、寒い日があったかと思うと暖かい日が訪れて、少しずつ、春になっていくのですね。 

 今年は梅が遅いようで、まだ咲きませんが、この調子なら、梅ももうじきでしょう。 

 わが国では季節感を大切にする文化が育まれ、手紙では必ず時候の挨拶を文頭に置きますし、女性の着物などでは季節を表す柄が入っている場合、その季節にしか着用することができません。
 俳句では自由律でないかぎり季語を入れるのが約束になっていますね。

 四季の変化が劇的であればこそ、このような文化が生まれたのでしょう。 

 北国の人はまた異なるのでしょうが、ひと冬中ほとんど晴れている太平洋側で生まれ育った私には、春は待ち遠しいようで、どこか寂しい季節です。

 春の愁いについては、このブログでもたびたび指摘してきました。

 その愁いがどこから来るのかは分りません。 

 しかし例えば、桜の樹の下には死体が埋まっている、と喝破した梶井基次郎櫻の樹の下には」のように、美の裏には不気味な死、穢れとしての死が存在するという予感を、多くの日本人が共有し、そこに命が輝く春にこそ、不気味な気配を感じ取ることが、むしろ当たり前になったのではないでしょうか。 

檸檬・桜の樹の下には (お風呂で読む文庫 6)
梶井 基次郎
フロンティアニセン

 そう考えると、春愁なんていう生易しくて浪漫的な言葉では、春の不気味さを言い表すには不足なのかもしれません。

 そんな戯言はさておき。

 実際にわが国の人々が感じる春の愁いは、そうは言ってもどこか浪漫的で軽いものであることは間違いないでしょう。

 例えその出自がもっとおどろおどろしいものだとしても。 

 若山牧水は、
 山ねむる 山のふもとに 海ねむる かなしき春の 国を旅ゆく
と朗詠しました。

 このくらいの小さな感傷を感じさせる愁いこそ、私たちが感じる春愁と言って良いでしょうね。 

若山牧水大全
若山牧水
古典教養文庫



若山牧水歌集 (岩波文庫)
伊藤 一彦
岩波書店

 いつか、梶井基次郎に倍するような、デカダンスの香り高い、不気味な春の物語を作り上げてみたい、という欲求が、この記事を書いている間に湧き上がってきました。 

 それはとても難しいことでしょうけれども。

にほんブログ村 本ブログ 純文学へ
にほんブログ村


芸術・人文 ブログランキングへ