ブリジストン美術館から帰って、読みかけの村上春樹の新作を、少し、読み進めました。
日本の古典文学と、それらに基づいた近現代の文学に親しんだ私には、村上春樹は西洋かぶれの、奇妙な文章を書く人としか思えません。
しかし、真実の文学は言語を超えると言うとおり、彼の鼻につく文体に不快感を覚えつつ、つい、読んでしまうのです。
全くの力技としか言いようがありません。
もうあと100ページというところまで読みましたが、晩酌で濁った頭でこれ以上読むのは作者に失礼かと思い、読むのを中断しました。
村上春樹の小説の多くがそうであるように、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」もまた、まっとうな現実を生きるまっとうな主人公が、摩訶不思議な世界にとらわれていく過程が描かれ、読者たる私は、またこの手かと気付きながら、呆気なく作者の策に落ち、物語に夢中になっています。
おそらく、長いわが国の文学史の中でも、稀有な物語作者であると同時に、自覚しているかどうかはともかく、どうしても逃れられないわが国文学の伝統を背負っている文学者であると言えるでしょう。
英語に堪能で、米国のペーパーバックで小説作法を学んだと言ってはばからない作者ですが、その小説に抜けがたいわが国古典文学の影響が見られるのは、多少とも日本の古典文学を学んだものなら、誰でもわかることです。
だからこそ、村上春樹はノーベル文学賞の候補になるのでしょう。
石原慎太郎が繰り返し言う、「真にナショナルなものでなければ、真にインターナショナルにはなれない」という言葉を、深い滋味を持って、思い出します。
そうであるならば、私もあなたも、すべてはそれぞれに年齢と同じ歴史を背負った歴史的存在。
何も歴史とは、100年前、1000年前のことではありますまい。
昨日のこと、もっと言えば、10分前のことも歴史であり、それらが積み重なったはるか昔のことが、学問的に歴史と呼ばれます。
今日私がブリジストン美術館に出掛け、特定の絵画に目を奪われたことも、明日からの仕事に戦々恐々としてアルコールの酔いに頼んでしまうことも、私という小さな人間にとっては、大きな歴史の一環であるに違いありません。
すべての人が、歴史の中心にいるということを自覚して、おのれと他人の人生を尊重することが、現代を生きる私たちに出来る唯一のことだと思うのです。