死の魔法

思想・学問

   なんだかこのところ残業続きで疲労がたまっているようです。
 ストレスからか、日々の晩酌もつい過ぎるようで、これでは体を壊してしまいそうです。
 今の私には、若い頃のような、連日の残業に耐える体力はありませんから。

 日々の仕事に追われ、それは第一に生活の糧を得るためであり、広い意味での社会参加でもありますが、それがため、重要な問題が置き去りにされているような気がしてなりません。

 それは生老病死ということ。
 お釈迦様が深く悩んで出家に至ったのは、生まれながらの苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、死の苦しみについて考えるためです。
 それはすべての人々が考えるべき重要問題です。
 特に、死ぬということ。

 私たちはおぎゃあと生まれた瞬間から、死の魔法にかけられています。
 まっすぐに、いつか分からない死の瞬間に向かって突き進んでいるわけです。
 今、この瞬間も。

 普段あまり気にもかけませんが、考えてみると恐ろしい話です。
 要するに私たちは全員死刑囚のようなもの。
 私が死刑制度に強く反対なのは、誰だって必ず死ぬのに、それを早めることが刑罰になるとは思えないからです。

 死の魔法から逃れようと、不老長寿の妙薬を求める権力者はあまたいましたが、今のところそれを得た人はいません。

 生老病死ということが生きるうえで逃れられないことなら、それを受け入れるしかないのでしょうが、なかなか人は執着が強く、逃れられないまでも、先延ばしにしようと、愚かな努力を行っています。

 アンチ・エイジングだとか、各種健康食品とか。

 それは人それぞれ好きにすれば良いことですが、私は生まれてしまった苦しみをまず受け止め、病気の苦しみも受け止め、今は老いの苦しみを感じ始めるようになって、最後の難問、死の苦しみを受け入れる準備をすべき時期が近づいていることを思い、表面的な若返りとか健康法に精を出す気にはなれません。
 そんな時間があるなら、静かに黙想するなり、先哲の著書を繙くなりして、老いと死について思いを巡らせることを優先したいと思っています。

 私が抱える最大の問題は、多くの凡人がそうであるように、日々の仕事や雑事にかまけ、生老病死について考えることもせず、わずかな酒に慰めを求めて、時間を浪費していることだろうと思います。

 しかし出家したところで、事情はそんなに変わらないと思います。
 乞食坊主にでもなって放浪生活をするのならともかく、現在の仏教各宗派に属して寺院を運営するというのは、家族経営の零細企業の社長のようなもの。
 サラリーマンほどでは無いにせよ、結局は仕事や雑事に時間を取られることになります。

 それを思うと、人間が生きる根本は、雑事に追われることにあるのかもしれません。
 逆に言えば、雑事に追われていないと、死の真実が迫ってきて、正気を保てないのでしょう。

 なんだか漫然とした記事になりましたが、漫然とならざるを得ないほど死の魔法は怖ろしいわけです。
 なにしろ全く不明の事態なわけですから。

 私はただ、世捨て人となって死の魔法について考えながら、その恐怖耐えがたいときには美的世界に逃避するような、優雅な暮らしを夢想する愚か者に過ぎません。
 
 あぁ、この記事を書くのに25分を費やしました。
 25分、死刑執行の時刻が近づいたのですね。

 あな、怖ろしや。

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