猫や象は死期を悟るといずこへともなく消えていく、という話を耳にします。
最期はおのれ一匹または一頭となってあの世へと去っていきたいのでしょうか。
なんだか羨ましいような気がします。
スパゲティ症候群などと言って、体中に管を通され、無理矢理死期を延ばされる病人がわが国には多すぎるような気がします。
人間には未来を予知する能力は無いとされ、死期を正確に悟ることは不可能だということになっていますね。
それは本当なのでしょうか。
人間は文明化の過程で失った能力がたくさんあるように思います。
今では超能力とか超自然現象とされていることも、太古においては単なる能力、単なる自然現象でしかなかったのではないかと直感します。
そうでなければ、占いや霊感商法にはまる人が現代でも数多く存在する理由がわかりません。
現代人もまた、太古の昔持っていた未来を予知する能力や、死者や精霊との交流が、じつは私たちが今ここに存在するのと同じ程度の確からしさをもって、確かな物だと本能的に感じているのではないかと思わずにはいられません。
科学的に証明されていない物は存在しないとするならば、おそらくこの宇宙に存在する物質の大半は科学的に証明されておらず、すると宇宙そのものがほとんど存在しえないことになってしまい、そのような科学的実証を金科玉条に信じることは、迷信と言って良いと思います。
私は実証よりも私の直感を信じています。
科学の常識は何年かすると覆り、非常識になってしまうことしばしばだからです。
では宗教的な感情、一途な信仰というのはどういうものなのでしょうね。
おそらく深い信仰を持ったからと言って、幸せになれるわけでも生きるのが楽になるわけでもないでしょう。
しかしそれでいて、人間はアニミズムの昔から人間を超えた存在を作りだし、それを崇め信じることで社会を構成し、道徳律を規律してきました。
米国の大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓することはよく知られています。
わが国のような厳密な政教分離を採る国家では有り得ないことですね。
つまり米国では本音はともかくキリスト教の神様の存在を前提として、あらゆる社会規範が構成されているというわけですね。
物質文明の権化のような米国にしてからがこの有様ですから、多くの国家、民族が科学的実証とは無縁のところで精神文化を発達させ、維持し、社会秩序を保っていることが想像されます。
わが国は無宗教の国民だと言われますが、正月には寺社に初詣でに行き、お盆には墓参りに行き、地域の祭りでは神社が中心となって神輿や山車が練り歩きます。
信仰心があるかどうかは別にして、わが国民は極めて宗教的儀式を大切にしていると言って良いでしょう。
かつて共産主義の親分は宗教はアヘンだと言いました。
しかし今となっては、共産主義こそ猛烈な害毒をまき散らすアヘンであったことが明らかになってしまいました。
ここにいたって、私の最初の問いに戻った感があります。
どこまで行っても科学的な態度だけでは生きていけない人間という集団。
その個々人には、死期を悟って静かに身を引く能力がかつてはあったのではないか、ということ。
私はそうであってほしいと思う反面、その能力を持つことに怖れを感じずにはいられません。