人間と動物を分ける所以のものは、ひとえに人は自分及び身近な人、はてはあらゆる生き物がいずれ死ぬ存在だとしっていること、それゆえに葬儀を営むことになると言えるのではないでしょうか。
古く、葬儀はネアンデルタール人にまでさかのぼるとか。
その一事をもって、ネアンデルタール人こそは、人類の始まりと言えるでしょう。
自分や家族、友人が必ず死ぬということを、私たちは知識と知っています。
しかし、核家族化が進むと、実際に人の死に目にあうということがかなり珍しい経験になりました。
かつて2世代、3世代が同居していた頃、今よりも寿命は短く、死は実感としてはるかに身近であったことでしょう。
さらには、かつて死に関することは最も重要な思索のテーマでしたが、現代社会は死を忌避しているか、あるいは無視しているように感じます。
いつまでも元気で生きることを何より重要だと感じてはいないでしょうか。
誰でしたか、西洋の哲学者が、現存在としての人間は死を経験しておらず、死んでしまえば現存在ではなくなるので、実態として死を感得することはあり得ず、死は存在し得ない、みたいなことを言っている人がいました。
それは屁理屈だろうと、私は思ったものです。
わが国においては、武士などは名をこそ惜しみ、命を惜しむべきではない、という価値観が現れました。
そしてまた、生を一種の夢と見る死生観。
それを進めた、西行法師や鴨長明、兼好法師などは、無常観に囚われ、現世を夢幻と断じ、わびさびという美意識の中に、死への安心を求めたように思います。
無常の中の美にこそ、死への恐怖を克服する所以を見たのでしょうか。
そして現代。
少子高齢化を迎え、もはや死を忌避し、生の充実ばかりを求める考え癖は、許されないものになったように感じます。
葬儀屋は盛んに広告を打ち、安価で安らかな葬儀を提供し、もって小銭を儲けようと躍起になっているように感じます。
私はかつてうつ病に苦しみ、その頃、私にとって死は身近で、しかも魅惑的なものでした。
うつ病患者に自殺が多いことは有名です。
そして自殺者は、おのれ独りの死が、じつは一人だけのものではないことに気付いていないか、あえて考えないようにしていることが多いようです。
身近に自殺者が出れば、残された者は激しい精神的衝撃を受け、何年も立ち直れないことがしばしばです。
社会的生物である人間の死は、死者一人の物ではありえず、例え大往生であろうとも、必ず遺族や身近な人に大きな影響を与えます。
死を考える時、死という事態は生きている者にとって全く不明であり、考えても仕方がないことなのかもしれません。
しかし人間は、必然的に訪れる死を想わずにはいられません。
この悩ましい問題を解決する手段として、宗教や哲学が興ったものと思いますが、ほとんど盲信のように、ある宗教なりにのめり込まない限り、これは解決できません。
そしてある宗教を盲信している人々は、不気味なほど幸福に見えます。
謂わば幻想を信じることで、安心を得ているのでしょう。
私はそんな状況に陥ることに魅力を覚えますが、実行に移すことはできないでいます。
それは私自身をだますことになるからです。
ほとんどが無宗教の現代日本人が、共通の死生観をもって、死を怖れずに生きることはできますまい。
不明の事態に目をつぶって現世を楽しむことに心を砕くべきでしょうか。
私はおのれ独りの死生観を確立し、そこに安心を得たいと言う野望を捨てることは出来ません。