先日、阿川弘之がエッセイやインタヴューなども含め、すべての作家活動から引退する旨が報じられました。
太平洋戦争中に青年将校として青春時代を送った彼は、多くの戦争を題材とした小説を執筆しましたね。
齢90、第三の新人と言われた同世代の作家たちも多くは逝き、潮時といったところでしょう。
今では娘の阿川佐和子のほうが一般に知られているかも知れません。
娘といってももう50代後半ですが。
独身の娘のことが唯一心配だ、と言っていましたが、結婚していたって、子どもに恵まれず、相手に先立たれれば生涯独身を貫いた者と同じこと。
一人に慣れていないためかえって喪失感に責められるかもしれません。
第三の新人のなかでは、私は安岡章太郎の小説を最も愛読してきました。
怠け者な感じが良いのです。
しかし、その世代の最高傑作は何かと問われれば、遠藤周作の「沈黙」を挙げるでしょう。
日本に宣教に行ったポルトガル人司祭が棄教したとの報告を受けて、ことの真偽を確かめに来た弟子の司祭の顛末を描いた小説で、キリスト教を題材にしたわが国の文学のなかでは、他の追随を許さない名作です。
拷問に耐えかねて棄教した日本人信者が、自分が棄教するまで許されないと知った弟子の司祭が、ついに踏み絵を踏み、日本名を与えれらて屈辱的な後半生を生きる物語です。
殉教への栄光を夢見て来日したものの、結果的には師と同じく棄教してしまいながら、自分の行為は真のキリスト者のそれであって、表面的にはともかく、内面では司祭であり続けたという重い題材を扱っています。
踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから。
というキリストの声を、長崎奉行所の中庭ですり減った踏み絵を前に、司祭は聞くのです。
殉教ということは、キリスト教やイスラム教でよく耳にします。
仏教においても、一向一揆や、時の室町将軍を諫めたために焼けた鍋を被らされながら信仰を捨てなかった鍋かむり日親など、権力者による迫害はありましたが、殉教という概念は希薄であったように思います。
そもそも教祖にしてからが磔で処刑されているわけですから、マゾヒスティックな側面が強い宗教のようです。
キリスト教の宗教画は、責め絵みたいなものが多く、さぞ良からぬ妄想を抱いて絵画鑑賞をした者が多かったことでしょう。
三島由紀夫の写真集、「薔薇刑」なんかもその系譜ですね。
宗教は阿片だ、と言い放ったドイツ人がいましたが、それはけっこう的を得ていて、人間は阿片に限らず酒でも珈琲でも嗜好品なしにはやっていけない面があるのですよねぇ。
「沈黙」の主人公がキリスト教を棄てることでかえってキリスト教の本質に気付く、というストーリーは、阿片であっても幻想であっても人知を超えた存在を設定せずには生きられない人類というものの悲哀を感じさせて見事だと思うのです。
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