定年退職して6年になるかつての上司の訃報に接しました。
定年後、某団体に再就職して、亡くなった日も元気に働いていたそうです。
誠に残念です。
私は直接の知り合いを亡くした経験が多くありません。
父方の祖母と母方の祖母、それに伯父、後は塾の先生と、現職死亡した職場の先輩が二人、それに27歳で自殺した職場の後輩と、同じく自殺した自助グループの仲間です。
ということは今回で9人目ということになりますか。
祖父は二人とも私が生まれる前に亡くなっているのでカウントしません。
身近な人が亡くなるときというのは、最も死について真面目に考える機会でもあります。
この間まで動いてしゃべっていた人が、微動だにせず横になっているのだから不思議なものです。
古人が死後存在を信じようとしたのは故なしとしません。
これが完全なる終わりで、後は虚無が拡がっているだけだと考えることは、とても怖ろしいことです。
しかもそれが、将来自分に必ずふりかかると思うと、怖ろしくていてもたってもいられません。
だから権力者は不老不死の妙薬を探し続けてきたんでしょうね。
もっともそれが、漢方医学などを発達させたとか。
西洋において錬金術が化学を発達させたのと似ています。
キリスト教やイスラム教、ユダヤ教においては、死者は最後の審判のときに蘇って審判を受け、天国か地獄のどちらかで暮らすそうですから、教義として、死後存在を認めていることになります。
一方仏教では、悟りを開けば仏になり、彼岸に至れる、と説いており、死後存在のことについては言及していません。
キリスト教との類似が指摘される浄土教一派も、南無阿弥陀仏を唱える念仏修行を積めば西方浄土で仏になれると説きますが、死んだら極楽に行く、という言い方は注意深く避けているようです。
また、神道では、死んだら黄泉の国に行く、と言っていますね。
しかもそこは不浄の地だとか。
しかし実際のところ、完全に死んだ人が生き帰って体験を語ったことがない以上、私たち現世を生きる者には死ぬということがどういうことか、まったく分からないということでしょう。
臨死体験というのはよく知られており、お花畑や光の中を抜けていくたいへん気持ちの良いものだとか。
これも死の苦痛を和らげるために脳が大量の快楽物質を分泌しているのだ、なんて訳知り顔に説明する人がいます。
死んだらどうなるか分からない以上、ただ微笑んで、考えないようにするしかないでしょう。
どっちにしても死んだら分かるでしょう。