人は意味不明の事態が起きると、必死で、自分たちが持っている知識や常識でそれを説明しようとする本能があるように思います。
人類学者、クリフォード・ギアーツは、フィールドの村で、数日の間に異常発達した毒キノコを見た村人たちが、口々に独自の解釈を述べ合った、と報告しています。
一時期よくテレビに出て超常現象は全部デタラメだ、と言って小銭を稼いでいた大槻教授も、この村人たちと同様、自らの知識や常識を守るため、必死になったのでしょう。忙しい物理学者がテレビで遊んでいる暇はないでしょうに。
超常現象や、キリスト教の奇跡、また、神がかりや口寄せなどの説明できないものは、社会の常識や科学を脅かし、人々を不安に陥れます。
この不安から逃れようと、良識ある大人は、大槻教授のようにあらゆる知識を動員して科学的に説明しようとします。
その姿は、執着そのもの。
どうして浅はかな人間が考え出した常識やら科学やらに固執するのでしょうか。
説明できないものであっても、いずれ科学的に説明できるようになるかもしれません。
また、人間は超自然的なものを求めてしまいますから、それらを否定してみたところで、自慰行為に過ぎません。
これはそういった現象は実際にあるんだ、と声高に主張する人も同じことです。己の信念を他人に傷つけられたくないのでしょう。
異常成長した毒キノコを見たら、説明など試みず、微笑んで無視すればよいのです。
人類学者、マリノフスキーによると、死者に対する儀礼は、世界中どこでもいちじるしい類似を示しているそうです。
臨終が近付くと、家族や近親者が死に瀕した人の近くに集まり、亡くなると、極めて個人的な経験であるはずの死が、とたんに公共的なものになるそうです。肉親や仲間を失った遺族が、死の虚無感や不浄感に対して、来世の存在や魂の不滅の信念を獲得する表現、だとか。
死という恐怖すべき事態に対応するため、人はあの世や神様を設定してしまうのですね。そして誰も知らない死んだ後のことまで、説明しようとするのです。
人間は、人智を超えた存在や現象に出くわすと不安に駆られ、恐れるくせに、そういうものに強く魅せられてしまうようです。
魅せられたなら、自分が感じる感覚のままに、身を任せるほかありますまい。