昨夜は焼酎をちびちびやりながら吉村昭の「海も暮れきる」という小説を読みました。
尾崎放哉の後半生を描いた小説です。
凄まじい後半生です。
東京帝国大学を卒業して保険会社の重役まで勤めながら、家族を棄て、流浪の生活をしながら句作を続ける姿が描かれています。
いくつかの寺の寺男や堂守をし、最後は小豆島の寺の小さな庵の庵主となります。
しかし収入の道が乏しく、わずかにお遍路さんにろうそくを売るばかりです。
酒飲みの放哉にはそれでは足りず、お寺の住職や島の俳句趣味のお金持ちに金を無心しては酒におぼれ、しかも酒乱のため島中の飲み屋から嫌われ、住職から庵の中で飲むのは構わないが、外で飲むことはまかりならん、と厳禁されてしまいます。
金の無心は遠く京都に住む俳人仲間や弟子にも向けられ、ほとんど一日中、金の無心の手紙を書いているありさまです。
その上肺病が進行し、ついには立って厠に行くこともできなくなり、近所の漁師の妻に身の周りの世話になってしまいます。
下の世話まで。
ついには骨の形に皮膚がはりついているだけのような、骸骨のような面相になってしまいます。
それでも句作だけは続け、金の無心と句作と酒、それだけの寂しい晩年が壮絶な筆致で描かれます。
小豆島の庵を終の棲家と定めてからわずか一年も経たず、肺病のため亡くなります。
その最晩年の姿は鬼気迫るものがあります。
一読の価値ありです。
じつは私は、あまり吉村昭の小説を好みません。
だいたい実際の事件に取材して、事実を羅列しているだけのような作品が多いからです。
しかし「海も暮れきる」では、そのどこか冷めたような筆致が、俳人の荒れた孤独な生活を存分に描き出しています。
定型の俳句を詠む俳人には長命な人が多いのに、自由律の俳人はなぜか短命な人が多いようです。
尾崎放哉しかり、種田山頭火しかり、最近では、20代前半という若さで亡くなった住宅顕信しかり。
思うに自由律の俳句というのは、定型の俳句のように季節の移ろいや自然美よりも、おのれの心の在り様を描くものが多く、それゆえに自由律の俳句を詠むという行為は、命を削るようなものにならざるを得ないのではないでしょうか。
今では最も有名な自由律俳人の一人である尾崎放哉が、これほど貧乏で、孤独で、大酒のみであったことに驚くばかりです。
![]() | 海も暮れきる (講談社文庫) |
吉村 昭 | |
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