安岡章太郎の小説に、「海辺の光景」という佳品があります。
海の見える病室で、愛憎相半ばする母親の最後を看取る中年男の話です。
3月に父が亡くなってから、私はこの佳品のことをよく思い出します。
海辺と浅草寺の五重塔がよく見える父が亡くなった浅草寺病院の個室とでは、もちろん趣きが異なります
しかしそこには、親を亡くすという根本的な類似があり、私にとって父を亡くした経験により、「海辺の光景」という小説は、切実な意味を持つものとなりました。
この小説の主人公は、どう見ても先が長くない母を見ながら、過去の思い出に浸ります。
それは決して良い思い出ばかりではありません。
私は父危篤の報を受け、浅草寺病院へ見舞いに行き、その数日後に、父ははかなくなってしまいました。
驚異的な生命力を持った男だと思い込んでいただけに、その呆気ない死は、私を呆然とさせずにはおきませんでした。
その後一ヶ月で、私は精神的ショックから食い物を受け付けなくなり、5キロ落ちました。
一ヶ月も過ぎると、生きている人間というのは都合よくできているものらしく、精神的ショックは感じなくなりました。
しかし、その後も体重はじわじわ落ち続け、結果、8ヶ月で20キロ落ちるという信じがたい事態を迎えるに到りました。
精神よりも胃袋が、父の死にダイレクトに反応したようです。
以来、私は人の死ということに深く思いをいたすことになりました。
人の致死率は100%で、おぎゃあと生まれた瞬間から、人は死に向かって一直線に向かっていきます。
私もまた、今は元気ですが、確実に死に向かって歩みを進めています。
この一直線に進む時間の流れというものは、なんと怖ろしいことでしょう。
誰もこれを止めることは出来ないのです。
そしてまた、私は27歳で自殺した職場の後輩、39歳で自殺した自助グループの先輩の、その死の意味について考えざるを得ませんでした。
どんなに辛くても、それが永遠に続くことはありません。
しんどい時期を乗り越えれば、また楽しい日々が訪れるはずです。
それが待てないほどの深い絶望とはいかなるものだったのでしょうね。
切ないほどに心が痛みます。
私もうつ状態が激しい頃、死はごく身近なものであり、極めて魅力的なものでありました。
しかし私はどうしても最後の一線を超すことができす、生き残っています。
そして今、私は非常に白けた気分で職場に通っています。
命を賭して働くような仕事があるはずもなく、ただ目の前の仕事をこなせば良いだけです。
そういう意味で、今の私は社会的には生きているというよりも死んでいないと言ったほうが適切でしょう。
生きているというよりも死んでいないと言うべき状態がこれから何年も続くというのは絶望的なことではありますが、日常の小さな喜びがないわけではありません。
その小さな喜びを糧としながら、私はこれから長きにわたって父やその他身近な人の死と人生を思い続けなければなりません。
おそらく長生きすれば、私が思い続けなければならない死者の数は増える一方でしょう。
それが長生きすることのしんどさなのだと思います。
私は今、猛烈に長生きしたいという欲求を禁じえません。
長生きして、仙人のような存在になって、この世の移ろいや人々の死生を眺めていきたいと思っています。
それが、父が最後に私に与えた課題のような気がしてなりません。
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