漂白と遁世

文学

 昨日山頭火の評伝を読んだせいか、サラリーマンを続ける私の生活に深い疑問を抱くにいたりました。
 サラリーマンを続ければ、嫌なことは多かれど、月々お給料を貰えて、安泰な生活を送ることができます。
 だからこそ、多くの人々は就職活動をしてサラリーマンになるのでしょう。
 しかしそれは、食うために時間を切り売りする行為です。
 時は金なり、と申します。
 まさに時を金に変える錬金術が、サラリーマンの生き方といえるでしょう。

 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。

 古人
も多く旅に死せるあり

 
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立る霞の空に白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神
のまねきにあひて、取もの手につかず。

 有名な松尾芭蕉「おくのほそ道」の冒頭です。
 やむにやまれぬ漂白放浪への思いが認められています。
 これを読んで旅心を起こさぬ日本人がいるでしょうか。

 一方与謝蕪村は若い頃芭蕉に憧れて津軽にまで旅をしていますが、旅は性に合わないと、京都に住み着き、生涯京都をでることなく、遁世の暮らしを楽しみました。

 芭蕉の句は求道的で奥深く、蕪村の句は美的で幻想的です。

 旅を求めるか、ものぐさな遁世を求めるかの違いによって必然的に生まれた句風の違いと言ってよいでしょう。
 私は蕪村の幻想美を愛でるものですが、ここではないどこかへ、日常を離れてあてもなく旅をしてみたい、という漂白の思いは痛切に理解できます。

 そして旅に飽いたなら、適当な場所をみつけて出家遁世するのがよろしいでしょう。

 しかし現代、そのようなことが可能なのでしょうか。
 行乞という生き方はもはや不可能でしょう。
 玄関先で突然乞食坊主が読経をはじめたからと言って、金や米を恵んでくれる人が在るとは思えません。
 警察を呼ばれるのが関の山でしょう。

 してみると、漂白と言い遁世と言い、結局は金持ちの道楽でしか叶わぬ夢であるようです。

 この世におぎゃあと生まれてきて、食うための苦役を逃れる人がどれだけいるんでしょうね。

 人生一度きり、好きなことをやらなければ損だ、という言説を時折耳にします。
 私はそれに、激しい反発を覚えます。
 好きなことだけやって食えるのか、という現実を生きる私の叫びです。
 一方で、そうでありたい、と願う私がいます。
 現実から逃げ出したい、これも私の叫びです。

 遁世して生きる術があるのなら、どなたか教えていただけませんでしょうか。

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