演劇? 舞踊?

文学

 あまり体調がすぐれず、一日ごろごろしていました。
 たまにはこんな休日も良いでしょう。

 明日は能見物に出かける予定です。
 千葉市内の劇場で能公演がありますので。

 かつてはよく国立能楽堂や観世能楽堂、宝生能楽堂まで足を運び、能を観ました。

 フランス人の前衛舞台芸術の演出家が初めて能を観たとき、自分たちが前衛だと思っていた舞台芸術を、日本人は500年以上前に完成させていたのかと驚愕した、という話を聞いたことがあります。

 極端に簡素化された舞台、道具に比して、衣装だけは豪華絢爛で、ストーリーは仏教説話や心霊譚をもとにした幻想的な雰囲気が魅力ですね。

 オペラで言えばオーケストラにあたる地謡や鼓、笛に指揮者がいないことも、そのフランス人演出家が目指していたことのようです。
 つまり演奏する者、謡う者、演じる者(舞う者)が互いに間を合わせ、誰にも指揮されないことを理想のハーモニーと考えたようです。

 日本人が聞くと当たり前すぎて白けちゃうような話ではあります。


 能は演劇なのか、舞踊なのか、という論争を時折見かけます。

 一応ストーリーがあって、何人かの能楽師が出てきて物語を演じるという意味では演劇なのでしょうが、能の本質は舞踊にあるとみるのが妥当であると私は考えています。

 この世ならぬ者が人の形をして現われ、やがて正体が露見して舞う、というパターンが多いようですが、必ずと言っていいほどストーリーを転がす時間に比して長すぎるほどの、しかも冗長にさえ見える舞があります。

 サンバなどとは対極にある、極端に動きが少なく、緩やかな舞です。
 その緩やかさゆえ、能楽師は相当高齢になっても務まります。
 サンバなどを本来の舞踊と考えたなら、能は舞踊のうちには入らないでしょうね。

 しかしその緩やかさゆえか、能の舞にはひどく観る者を緊張させる力があります。
 それが型ですね。
 型にこそ能の本質があると言えましょう。

 わが国はどうも型にはまったものがお得意のようで、冠婚葬祭などの儀式にしても、卒業式などにしても、わが国の儀式は無駄なものをこそぎ落としていった簡潔を良しとするがゆえ、そこには荘厳さと緊張感が生まれます。

 それを一番感じたのは、今上陛下の即位の礼の呆気なさと、英国ウィリアム王子の結婚式の冗長さとの差でしたね。

 英国人は儀式が下手だなと思いました。
 あるいは儀式に対する美意識がわが国とは全く違う、と。

 もう終わり?と思わせないと儀式は失敗だと思います。

 明日は元気に久方ぶりの能見物を楽しみたいと思います。

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