わが国には、演歌と総称される歌謡曲の一分野が存在します。
しかしこの演歌というものほど、その定義が曖昧なものもありますまい。
元々は、明治時代、自由民権運動に励む人々が、一般庶民に分かりやすいように節をつけて歌った演説歌が始まりとされているようです。
その後、民謡などわが国古来の歌謡に合わせ、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、ヨナ抜き音階と呼ばれる音階法を用いた歌謡曲が多く製作され、歌詞においては、悲恋や不倫を含めた男女の情愛、家族愛、職場での結びつきなど、広く人間の情愛を主にしたものが製作され、多くの日本人の心を捕らえました。
一方、淡谷のり子などは演歌を毛嫌いし、演歌撲滅運動などを繰り広げました。
演歌なるものが、古来からの日本人の歌謡の美意識から遠く離れていることは、少しでもわが国の古典文学を学んだ者には自明の理です。
したがって、アナウンサーなどが、「演歌は日本の心です」などと明らかに歴史的に誤った発言をすると、虫唾が走ります。
それは間違いです。
演歌なるものがなぜ現在の60代以上の人々の心をとらえ、逆に50代以下の人々はいわゆるポップスやニューミュージック、フォークと呼ばれる分野から演歌に好みが移行しないのかは分かりません。
しかし理由はどうあれ、演歌なる最近生まれたジャンルは、ごく短い流行の後、消え去ることは間違いないでしょう。
だからこそ、森進一が吉田拓郎などの歌を歌ったり、坂本冬美がフォークソングとされていた「また君に恋してる」などをヒットさせたように、演歌というジャンルは、本来そうであったように、流行歌に戻っていくでしょうし、戻っていくべきだと思います。
そうでなければ、暑苦しい情愛を歌う小さな分野が、まるでわが国古来の伝統であるかのごとくに広く国民に誤解され、それがゆえに伝統文化に触れもせずにわが国本来の歌謡を毛嫌いする日本人が増えるに違いありません。
わが国の本来の歌謡は、花鳥風月に仮託して、遠回しに感情を詠う、奥ゆかしいものです。
わが国では文法中心の古典文学教育を行い、それがために古典文学嫌いの日本人を量産しています。
馬鹿馬鹿しいことです。
古典文学は、古いとはいえど日本語です。
この国で生まれ育てば、日本語が理解できないはずがありません。
要は分からないなりに、たくさん読むことです。
赤ん坊が言葉を覚えるのと同じこと。
それを、国語教師は馬鹿馬鹿しくも何段活用だとかなんだとか、簡単なはずの古い日本語を、ことさら難解であるかのように教えています。
古典文学の教育を、文法中心から、書かれている内容中心に大転換し、日本人がどんな切ない想いで歌謡を作り上げてきたかを知れば、演説歌の末裔である演歌など、絶滅するがよろしかろうと気付くはずだと思うのです。