無から有、そしてまた無へ

思想・学問

 無から有へ、そしてまた無へ、といった意味のことが、昨日読んだ「教団X」で書かれていました。

 人間の誕生、人生、そして死を表す言葉です。
 なるほど、輪廻転生とか極楽とかいうものを否定すれば、ほとんど永遠とも言える長い時間、私たちは人間としては存在していません。
 素粒子レベルで考えれば、私たちの元となる物質は存在し続けていたのでしょうが、それは人格を持った人間とは別物です。

 そして、ほんの80年ほどの生を生きて、また無へと回帰していきます。
 その無もまた、誕生前と同様、永遠と言ってよい時間です。

 そう考えると、有、つまり生きているという状態は、奇跡的とも言えるもので、しかもほんの一瞬のような短い時間です。

 生きていると嫌なことや辛いことがたくさんあって、早く時間が過ぎてくれ、なんて思うこともたびたびですが、有である時間がほんの一瞬であることを考えれば、時間が早く過ぎてくれなんていう考えは、もったいないものです。

 素粒子レベルでは、ビッグバン以来、物質の総量は変化していない、と言います。
 素粒子が様々に形を変えて存在し、人間をはじめとする生物もその一つに過ぎない、というわけです。

 ちょっと意味は違いますが、仏教でも不生不滅ということを言いますね。

 それらは現代の科学では正しいこととされています。
 では霊魂の不滅や、霊感、予感、といったことはどうでしょう?

 現代の科学ではこれらは否定的に捉えられています。

 しかし、私は、科学が劇的な進化を遂げれば、上に挙げた、いわば胡散臭い物事も、論理的に説明できるのではないか、という予感を抱いています。

 霊魂とか未来予知とかいうといかにもあり得なさそうに感じます。
 でも虫の知らせとか、不吉な感じと言ったら、多くの人はそういうこともある、と感じるのではないでしょうか。

 そもそもこの世ならぬものへの予感を否定してしまっては、優れた芸術や宗教が生まれないような気がします。

 それでも、生まれる前の無限の時間と、死後の無限の時間が存在して、その狭間をほんの一瞬だけ生きて在る、と考えることは、人生を有意義にするものと思います。
 その一瞬の生は、とてつもなく偉大で、尊重すべきものです。

 そう考えれば、人の命を奪うという行為が、どれだけ罪深いかは明白で、だからこそ、世界中の法律が殺人を重罪として捉えているわけです。
 まして大量殺人と大量破壊をし合う戦争などは、唾棄すべき愚行でしかないし、テロもまた同様です。

 それでも、人間は殺人を犯し続け、戦争をし続けています。
 素粒子レベルで、それらの罪を犯すことを宿命付けられているかのごとくです。

 それが悲しいかな、現実です。
 だからこそ、核兵器などの力の均衡により戦争を抑止しようとしたり、あるいは平和平和と叫んでみたりするのでしょう。
 両者は、同じ動機に依っているものと思います。

 また、殺人鬼を無期懲役や死刑にしたりもするのでしょう。
 私は死刑には反対です。
 無と無の間を彷徨う人間の生は、いかなる理由があろうとも奪ってはならないと思うからです。
 まして国家が無防備な囚人を殺してしまうなど、論外だと思います。

 私たちに出来ることは、人間の限界を知りながらも、殺人や戦争を否定し、核抑止力でも何でも良いからこれを防ぐ努力を続けることだけです。

 そんな努力が水泡に帰すことがあることを知りながらも。


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