無力感という悪

思想・学問

 私は生まれてこの方、お金持ちになったことはありませんが、さりとて、お金で苦労した、ということもありません。
 生活には困らないだけの収入は常にありました。

 しかし、テレビのドキュメンタリーなどを見ていると、現代でも、世界にはまともに三食食べられない人々が大勢いることを知らされ、愕然とします。
 食べられない、ということは誠に苦しいことでしょう。

 また、食べられない、というほどではないにしても、私の大学の同級生で、北海道から上京して、奨学生として新聞配達をしながら学んでいる者がいました。
 入学当初は向学心に燃えていることが傍から見ても分かるほどでしたが、しだいに講義中は寝てばかりいるようになり、いつの間にか退学してしまいました。
 その後どうしているのか知りません。
 
 貧しいということは、ほとんど悪と言っても良いでしょう。

 与えられたパンを奪い合い、粉々にして無駄にしてしまう貧しい子供の姿から、ボードレールは、パンを分け合うことすらしない(できない)、人間の獣性こそが悪であるとみなしました。

 アフリカなどで、援助物資を積んだトラックが、停止せずに、ゆっくり走りながら援助物資を投げ与える光景を目にします。
 そうすることで、援助物資を受け取る側は、トラックの後を走らなければならず、奪い合っている暇はない、ということなのでしょう。
 うまいこと考えたなと、思いました。

 そう思うと、援助を受ける側にも問題はあるのだろうと思います。

 しかし、貧すりゃ鈍す、と言うとおり、空腹に耐えがたい状態になれば、人間誰しも冷静ではいられないはずで、それを、人間本来が持つ悪だと見なすのはあんまり酷だと思います。

 悪は、そういう状況を作り出してしまったことと、それを放置していることであろうと思います。
 そういう状況を作り出してしまった、というのは、戦争(内戦を含む)だったり、飢饉だったり、色々と要因はありましょうが、大抵の場合愚かな為政者の失政が主たる原因でしょう。

 しかし、それらの状況を放置している、という意味では、世界がそれを引き受けなければならない問題になってきます。
 例えば北朝鮮。
 あるいはシリア。
 世界はそれらの国に住む人々に対し、有効な手を打てずにいます。
 仮に積極的な介入を国際社会が行えば、悪から民を救おうとして、新たな悪を為すことにもつながります。
 軍事的な介入は犠牲者を増やすに違いないからです。
 ここに至って、善と悪の関係は倒錯し、善=悪という等式が成立してしまうでしょう。
 
 シャルル・ペギーの「ジャンヌ・ダルク 愛の秘儀」という劇作品において、ジャンヌ・ダルクは、フランスから英国軍を追い払え、という神の声を聞き、善であると信じて英国軍との戦いに赴きました。
 しかし、フランス人の多くの虐殺された遺体が、英国軍によるものではなく、フランス兵による略奪や強姦の跡だということを部下のジル・ド・レから聞かされ、悪との戦いという形を取って、善であるべきジャンヌ・ダルク自身が、悪を生み出していると知り、彼女はそのような方法でしか救われないなら、フランスは救われないほうが良い、とまで思いつめます。
 しかも、一緒に戦うジル・ド・レは、悪に悦びが存在していることを隠そうともしないのです。



ジャンヌ・ダルクの愛の秘義
岳野 慶作
中央出版社

 ただ、ジャンヌ・ダルクのような英雄ではない、一庶民としての私が感じるのは、無力感です。

 例えば千円なり一万円なり、あるいは奮発して十万円をボランティア団体等に寄附したところで、大勢に影響なないだろうな、だったら何もしない、という感覚です。
 じつは、この無力感こそが、最も怖ろしい悪なのではないか、と、砂の国の争いや、汚れた星を嘆くテレビ番組などを観ていて、ぼんやりと思います。

 もちろん、それは積極的に悪を為すということではありません。
 むしろ、善良な一般庶民の、普通の感覚ではないかと思います。
 で、あるからこそ、この悪は根深いと言わざるを得ません。

 悪を悪とも自覚できないのですから。

 これは怖ろしいことです。

 しかし悲しいかな、私自身がこの悪にどっぷりと毒されており、身動きが取れません。
 こんな記事を書いておきながら、じつはどうすることも出来ないし、何をするつもりも無い、ということを、私は知っています。
 これを悪と言わずして、何を悪と呼ぶのでしょうか?

 無力感あるいは無関心こそが、人間の真なる獣性なのかもしれません。
 そうであるなら、私もまた、獣でしかありません。
 せめては、おのれが悪にまみれた獣に過ぎないということを自覚することから始める他はありません。


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