無神論者に絞首刑を

社会・政治

 バングラディシュでイスラム教徒20万人あまりが、イスラム教やアッラーの神を冒瀆した者に死刑を適用することを求め、大規模なデモを行い、一部が暴徒化、治安部隊と衝突して22人が亡くなった、という衝撃的なニュースが飛び込んできました。



 バングラディシュはイスラム教徒が83%を占めますが、かつては仏教が盛んで、今も人口の16%が仏教徒であり、信教の自由は保障されていたはずですがねぇ。

 大体死刑廃止を求めるデモというのは聞いたことがありますが、ある特定の宗教を冒瀆したら死刑にしろなどという乱暴な主張を掲げて大規模デモを行ったという話は寡聞にして知りません。

 以前、過激なイスラム原理主義の祭政一致国家、イランで、ある女性がテレビのインタビューで尊敬する人物を問われ、当時イランのテレビで放送されて人気があったおしんと応えたところ、死刑判決を受けたと聞いて驚いたことがあります。
 死刑の理由は、イスラム教徒ではない人物を尊敬したからだとか。
 もっとも、すぐに恩赦となり、死刑が執行されることはなかったそうですが。

 バングラディシュと言えば、国旗のデザインが日の丸とうり二つで、一部に日の丸をぱくったとか、日本のような豊かな国になりたいと願って制定したとか言われています。
 それに対し、バングラディシュ政府は否定も肯定もしないという大人の態度を見せています。



 そのような政府を持つ国家に生まれた国民は幸せだと思いますが、デモに参加した連中はイランのようなイスラム原理主義の祭政一致国家を求めているのでしょうか。

 もしそのようなことになったら、16%の仏教徒と、1%のその他の宗教を信じる者及び無宗教の者は国を追われるか、迫害されるでしょうねぇ。

 共産主義を主導した親分は、宗教はアヘンだ、と言いました。
 アヘンと言えばアヘンかもしれませんが、むしろ精神安定剤と言ったほうが近いような気がします。
 宗教に限らず、拠って立つべき価値観や道徳律は、どれもアヘンのようでありながら、むしろ精神安定剤と言うべきだと考えます。

 そして人は、えてして自分が信じる宗教や価値観が何よりも正しいと思い、それ以外の考え方を否定しがちです。
 我、さらには我々こそが正しく、彼、及び彼らは間違っていると思い込むことは快感ですらあります。

 イスラム原理主義者をはじめとする教条主義的な石頭の人々は、その快感に浸っているようで、傍から見ると滑稽ですらあります。

 まして死ぬ必要などないはずの、単なる示威行動で22人もが犠牲になるとは、亡くなった方にはお気の毒ですが、笑うに笑えず泣くに泣けない情け無い事態としか言いようがありません。
 この22人が殉教者となって、さらに過激な行動に出ることを怖れます。

 私もまた、戦後日本に生まれ、自由と民主主義という価値観にどっぷり浸って育ち、自由と民主主義よりマシな価値観というものを、思い浮かべることができません。
 時代と土地に縛られた価値観にがんじがらめになっているという意味では、私もイスラム原理主義者と変わりません。
 ただし、自由と民主主義というのは極めて醒めた価値観であり、熱狂的になることが少なく、自由と民主主義を第一として生きながら、それはイスラム原理主義者と変わらない、という醒めた考えを持つことができる、というか持たざるを得ない、熱狂を求める人にはつまらぬ価値観でもあります。

 しかし結局、多様な価値観がぶつかり合う現世においては、互いが一歩引いて、醒めた態度を保つ他、争いを避けることはできないように思います。

 それはビジネスの場を考えてみれば分かりやすいでしょう。
 仕事では様々な交渉の場面があり、時には怒ったふりをしなければならないこともありますが、それはあくまでふりであって、本当に怒ってしまったり、感情的になってしまっては、その瞬間に負けが確定すること必定です。

 大人はどこまでも、徹底的に醒めていることが求められます。

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