日本人、特に関東人の美意識には、不思議な感覚があります。
江戸落語の大成者、三遊亭円朝師匠の戒名は、無舌居士と言うんだそうですね。
しゃべるのが仕事で、しかも大名人と言われた師匠の戒名が、無舌居士。
舌が無ければ話すことはできません。
噺家の最後の境地が無舌だとしたら、話芸とは何なのでしょうねぇ。
相撲でも、大横綱、双葉山は、69連勝という破竹の快進撃を続けながら、70連勝が叶わなかった日、知人に「我、未だ木鶏たらず」と書き送っています。
木鶏は動くことができません。
何しろ木彫りですから。
しかし闘鶏では、木鶏の動じない姿勢を最高とします。
双葉山も、木鶏の境地を目指していたのですねぇ。
また、役者を褒めるのに、「上手くなったねぇ、何しろ芝居をしないもの」なんて言いますね。
役者は芝居をするのが仕事なのに。
また、嘘か真か、故古今亭志ん生師匠は、晩年、高座で眠ってしまい、かえってそれが客に受けて語りぐさになったと聞き及びます。
全ては、名人の域に達したならば、泰然自若として、何もしなくても自然と名人の業がにじみでる、ということでしょう。
このような美意識は、武士道に見られるように思います。
時代劇なんかで、凄腕の剣士が果たし合いをする時、お互い動かずに何分もにらみ合って、互いの気迫や力量を探りあい、勝てないと思った剣士の額から、にわかに冷や汗が噴出し、ついには腰が抜けたようになって「参りました」なんて言うシーンがありますね。
結局戦っていないのですよねぇ。
戦わずして勝つ、ということでしょうか。
カンフー映画なんかではこうはいきません。
これでもか、と言うほど長時間戦って、もう飽きた、と言う頃、やっと勝負が決まります。
どっちが良いかは好みの問題でしょうが、やはり私は日本人ですから、日本的美意識を現わす時代劇のほうがお好みですねぇ。
しかしサラリーマンではそういうわけにはいきません。
事務であれ営業であれ技術職であれ、きちんと頭と体を動かして、成果を挙げなければなりません。
机に向かってひたすら気迫をみなぎらせたところで、手を動かさず、書類も見なければ、いずれ解雇されてしまうでしょう。
因果な商売ですねぇ。