文学

 ユーモアあふれる乾いた作風の小説が特徴の小林恭二が、「父」というシリアスな私小説風の物語を書いています。

 父親は一高から東大を出て、神戸製鋼の重役にまで上り詰めたエリートです。

 しかし、小林恭二の筆致は終始醒めています。

 父親は、最晩年、ブロン液や風邪薬などを大量に服用し、意識を朦朧とさせたまま、最後の日々を過ごしました。

 その姿は壮絶です。

 息子たる小林恭二は、そんな父に対し、心にシャッターを下ろしてしまいます。
 心にシャッターを下ろしたと豪語しながら、一方、父親の死に対して完璧に無罪な息子など、この世には存在しない、と複雑な父子関係を吐露します。

 薬剤で朦朧となった父親を眺める作家の姿は、醒めているだけでなく、どこか悲しげです。

 私は父に対し、心にシャッターを下ろしたことなど一度もありません。

 私は30代半ばになって精神障害を患った時も、父は私を心配して精神科の診察に立ち会ってくれたり、奈良や京都に大名旅行に連れて行ってくれたりしました。
 私の文人風の才能を最も愛でてくれたのは、親族中で父だけであったと、確信しています。

 それだけに、父の死は堪えました。
 この世を構成すべき重要な一部が欠落してしまったと感じ、その感覚は今もなお続いています。

 小林恭二が言う、父親の死に対して完璧に無罪な息子など、この世には存在しない、ということが真実だとするならば、私の罪は何でしょうね。

 精神障害を発症したこと?
 あるいは父のおごりで高級寿司や大名旅行に連れて行ってもらったこと?
 あるいは私という存在が持つ根源的な邪悪さ?

 どれもぴんときません。

 父の骨を拾った時、その熱さと骨の太さに驚きました。
 父は枯れ切って亡くなったわけではなく、72歳と高齢ながら、その遺骨からさえ、生命力の強さみたいなものを発散させていました。

 今は遺骨となって寺の座敷の一番奥に写真とともに鎮座ましまし、今も多くの弔問客が毎日訪れるそうです。

 11月29日、本葬にともなって墓に入ってしまう前に、NHK松山放送局の番組のDVDを届がてら、今度の日曜日にでも納骨前の最後のお参りに行ってこようかと思っています。

 父の死に対する私の罪は、父がもっともっと長生きして、私を導いてくれるものと信じて疑わなかったことと、未だに父の死を受け入れられずにいることかもしれません。

父 (新潮文庫)
小林 恭二
新潮社


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