物語というのは、それが文学作品であれ、映像作品であれ、舞台芸術であれ、なぜかくも私たちを魅了するのでしょうね。
物語というのはその名のごとく、元は語られるものであったはずです。
親が子に、祖父母が孫に語って聞かせるお話しが、物語の源流であったことでしょう。
そういう意味では、落語や講談など、一人で語って聞かせる芸が、もっとも原始的な物語なのではないでしょうか。
物語は経験をコントロールして道を説いたり、美的発明として物語作者に与えられた方法であったり、と考えがちですが、私はそれは正確ではないと思います。
物語は人間精神の基本的な活動であり、運動です。
物事を学習するのも、批判するのも、物語に拠っており、したがって生きることそのものが物語としか言いようがない事態が現出します。
私と他者との物語、社会的・個人的な過去と未来についての物語を紡ぎながら、私たちは日々、生きているのでしょう。
つまり生きることは物語であり、真実は物語の中に存在します。
その真実を問うとき、物語のあまりの膨大さに、私たちはしばし呆然とします。
膨大な物語のなかに、世界に関する物語と、私に関する物語が存在するように思います。
世界に関する物語とは、神話や聖書など、世界の起こりと成り立ちを描いた宗教的側面を持った物語です。
私に関する物語とは、わが国では「竹取物語」・「伊勢物語」・「土佐日記」辺りをはじめとする私もしくは私と周辺の他者を描いた物語です。
いわゆる近現代文学はほとんどこれですね。
これらを対象に真実を問うことは、実はほとんど意味がありません。
その問いは、なぜ生きているのか、とか、なぜ人間が存在するのか、といった、ほとんど宗教的・哲学的な問いに堕してしまうからです。
では私たちは物語から何を読みとれば良いのでしょう。
それはおそらく、物語を総体ではなく、個別の場面から読む方法でしょう。
物語は概ね、Aという主人公がBという場所で時間の経過を追って恋したり犯罪を犯したりして、結末となる、という経過をたどります。
しかし物語を享受する者は、AやBといった固有名詞を取っ払い、人はこういう場合、こんな行動をとることがあり得る、ということを知ります。
ここに小さな真実があります。
そこから教訓を読み取ってもいいし、人間性の一つの発現と読んでもいいでしょう。
またそこに、美を見出すのもよいでしょう。
物語に拠る真実の探求は、極めて個人的なものです。
そして私たちは否応なく私たちという物語を生き、紡ぎ続けなければなりません。
語られることはなくとも、それは紛れもない物語なのですから。
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